日本の"トマホーク"購入検討で考える暴力の対抗措置

21世紀の現代においても世界各地で紛争や戦争が起き続けていて、対人・対国の関係性において物理的に相手の実行力を奪う“暴力”が最上位(?)のコミュニケーションになっていることにもどかしさを感じずにいられない。
 暴力の行きつく先は、権利の収奪である。僕は地方の消防団にて活動しているのだけれど、よく消防団の活動目的として「地域住民の安全と財産を守る」というフレーズが使われていて、暴力によって収奪される権利の大別としてはしっくりくるなと感じている。財産には文化的および生活サイクルまでをも含んでよいと思う。身体の欠損や、基礎的な社会統治が変わってしまえば、半永久的にこれまで享受してきた当たり前が失われてしまうからである。これは怖い。
 暴力の発生を未然に防ぐため、
①    暴力源(位置、組織、武力、能力)を特定する。
②    自身の防衛力を強化する。
③    最大級の暴力を擁するチームと徒党を組む。
④    社会一般のルールを定め、けん制し続ける。
という事が行われている。

一方で、僕らが生きる現世社会は勧善懲悪の世界ではないことが、状況を複雑にしている。盗人にも三分の理ではないが、暴力を行使して収奪する側には「自身の正義」が必ず存在する。お金がないから強盗をする、眼前の脅威に対して先制攻撃をする、収奪された経験による報復など、行為自体は非難されるべきでもそこに至る物語には、少なからずの正義、いや、欲求と言うべきかもしれないものが存在している。
 だからこそ、上記④の社会一般のルール制定が地球上でまとまることが無いのだと思う。人間は一人一人小宇宙(自我)を抱えていて、同郷の同級生であっても考え方が根本的に違っていたりする。あの人にとって良いルールは、こちらの人にとっては良くないルールである場合もあるし、ルールの解釈が人や時代によって異なることもある。しかしながら、個々人の認識の違いは新しい価値を生み、文化を創っていく側面があり、人類にとって必要な要素である。その違いが大きすぎると対立を生み、系としての調和が乱される。バランスが肝要であるのだ。
 
別考ではあるけれど、私たちが暴力に直面しても恐れない世界とはどんな様相を示すだろうか?暴力が収奪するものが、安全と財産である。それらがTVゲームのリセットボタンを押すかのように、収奪されても復元できるような状況であれば(痛みは生じるものの)恐れが少なくなると思う。つまり、死が訪れない世界だ。これは現実的にテクノロジーの開発ベンチャーなどが人間の思考をデジタル世界は移行させる技術開発なども行っている。が、僕はこの思想には反対的立ち位置である。人間の栄枯盛衰は悲しいけれど、労害と揶揄されるように、人間が永遠の命を授かったときは決してロクな世界ではないと個人的には感じている。かつて吉田松陰最期の言葉として
「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。ひとにも同じように四季があります。ひとの命とは歳月の長さではない。それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。
私は30歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。どうか一粒の籾として、次の春の種となれますよう。」と紡いでるように、その限られた命を一生懸命に使うことが大局的な宇宙の発展につながるのだと思う。ということで、暴力の対抗手段としての永遠の命を得よう、は嫌だなと思う。

対暴力の対抗措置は、短期的には暴力による対策をもつこと(これは現実的には否めない)。一方で、自分だけや、自分の地域や、自分の国だけでなく、その想いを利他に馳せることができるような人が増えて行けば、暴力の威力や頻度はもっと減っていくだろうと思う。暴力とはひどく本能的で、野蛮な行いだと思う。人類としてより高みへ、成長の伸び代があるのだという事が明るい未来の道しるべなのだと思う。学ぼう。

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