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青春18きっぷで旅をした話

3月19日〜27日の9日間、青春18きっぷを使って鈍行で旅をした。
このnoteは、その記録である。

今回の旅の目的は「会いたい人に会いに行く。行きたい場所に行く」
とてもシンプルな動機だ。
自分自身の寿命や体力や今後の仕事について考えた時、この時期がちょうど良かったこともあって、思い切って出かけることにした。

●3月19日(火)旅の1日目


熊本から実家のある北九州市へ。
初日は移動時間があまりかからないこともあり、18きっぷのメリットを最大限に活用して、途中下車をして友人から勧められた気になる喫茶店へ寄ってみる。
手作りのご飯、温かくて美味しかった。
予定していた電車には乗り遅れて1時間後の電車に乗ることになったけど、今日の目的地は近い場所だったから、モーマンタイ。
いつもは新幹線で実家に帰るので小倉駅まで車で迎えに来てもらうけど、今回は実家の最寄り駅まで電車で移動して、そこからは久しぶりに歩く。
高校生の時、いつも学校帰りにウシガエルの赤ちゃんを捕まえては帰っていた用水路、壁に生えた不思議な苔、朝起きるのが苦手でいつも走って駅まで行っていた道、通学で利用していた電車の床の模様、20年以上も経っているのに、あの時のまま時間が止まってるようなそんな景色だった。
その晩は強風警報が出ていたこともあって、シャッターをノックする風の音がうるさかったことと、次の日からの本格的な旅にワクワクドキドキした高揚感でなかなか眠りに就けなかった。

●3月20日(水)旅の2日目


北九州市から一気に姫路へ。
歩く移動時間も含めると約12時間の移動。
大学時代、お金が無さすぎていつも青春18きっぷで滋賀県と北九州市を往復していたこともあってこのくらいの移動なら案外平気。
就職活動でさえ、滋賀県から17時間かけて熊本県まで通ってたなかなかのツワモノ。
大学時代に鈍行で日本縦断の旅をしていたことも。
そんな経験があったからこそ、今回の旅は全て懐かしくて、当時のことも思い出されてとても良い時間。

高校卒業以来、24年ぶりに高校の最寄駅を電車で通った。
四半世紀近く年月も経てば、いろんなことが変わっていくことは仕方ないことで、例に漏れず、毎日利用していた乗り換え駅も、毎日通過していた駅もどんどん新しくなっていってて、「仕方ない」と言い聞かせる自分と、当時の記憶や思い出が置いてけぼりになったようななんとも言えない虚無感みたいなものに胸がキューっとなった。
だから、「◯◯駅(高校の最寄駅)も、きっとそんな風に新しい姿になっているんだろうな」と半分諦めのような気持ちで到着したホームを見たら、当時と本当に何も変わってなくて(マイナーチェンジはしてるかもしれないけど)電車を待つ時に座ってたベンチも、壁も手すりもそのままだった。
あれから24年もの間、駅はたくさんの人を見送っただろうし、たくさんの人を迎えたんだろうな。
楽しいこともあった高校時代だけど、辛いこともたくさんあった思春期の私は、駅のホームのベンチに座りながらいつもベンチに話を聞いてもらっていて、「駅さん、ベンチさん、あの時は苦しい胸の内を聞いてくれてありがとう」とお礼を言って通り過ぎていく駅を見送った。

途中の乗り換え駅でエスカレーターに乗っていたら先頭の人が傘を落としてしまって、その傘が何人もの横をすり抜けてすごい勢いでエスカレーターを滑り落ちてきて、傘の先端が私の足首に当たって止まった。
私はそれを拾い上げて、傘に向かって「無事にここで止まって良かったね」と言ってエスカレーターを上がったところで持ち主に傘を手渡したら、持ち主の第一声が「傘って、めちゃくちゃ滑るのねwww」だった。
私は傘が痛い思いをしなくて済んだし、他の人も痛い思いをしなくて済んだから良かったとは思ったから(私の足は痛かったけど)ニッコリ笑って傘を手渡したけど、そういう時、まずは「お怪我はないですか?」と言える人間でありたいな…と思った。

その後は道中、大学時代に何度も見た懐かしい海を眺めたり、心地いい電車の揺れに揺られながら無事に目的地の姫路へ到着。すっかり夜になっていた。
この旅の間にずっと気になっていた「スマホの充電問題」を解決するべく、コンビニで夜ご飯と共にモバイルバッテリーを購入。
この日から、生活の質が格段に上がった。現代の技術に感謝。
この日の宿泊先はとんでもなく豪華なホテルだった。
「たったの数時間寝るだけのために泊まるようなホテルじゃない…」と予約を入れた当時の私に言ってあげたい。

●3月21日(木)旅の3日目


姫路から滋賀県へ。
今回の旅の一番の目的地でもある「竹生島」へ。
竹生島は「神様の住む島」だと言われている。
昨年の10月頭頃からにこの島の神様に呼ばれていたので、今回の旅を計画したのだ。
島自体がものすごくピリッとした島で(語彙力)、その雰囲気の通り、島自体が渡る人を選ぶらしい。
西国三十三所の第三十番札所でもあることから、何度も足を運ぶが何度来ても渡れない人もたくさんいるらしい(地元の人やフェリー乗り場の人が教えてくれた)
唯一の交通手段であるフェリーは、特に冬は欠航が相次ぐ。
事実、私が竹生島に渡る数日前からずっと欠航や1日1便だけの運航で、他は全て欠航するような状況だった。
当日も吹雪で、屋根にはたくさんの雪がどっかりと積もっていた。
おそらく普通の感覚の人なら「やめておこう」と判断すると思うが、私はどこか自信満々で現地へ向かっていた。

「だって、竹生島の神様が呼んでるんだもん。絶対に何が何でも島に渡れるよ」

そんな底なしの自信を持って、鈍行に揺られる。
目の前に映る車窓からの風景は、吹雪いたり晴れたり曇ったりとコロコロと変わっていく。
その間、フェリー会社のホームページで運航状況を逐一確認しながら、最寄駅の「近江今津駅」に到着。
フェリー出航の20分前には港に着いておかないといけないけど、電車の都合で10時45分のフェリーには間に合わないから12時のフェリーに乗るつもりで港に向かってテレテレと歩いていると、フェリー乗り場の係員さんが自転車で私のところまで走って来て「もしかして、フェリー乗船のお客さんですか?」と聞いてきた。
「はい!でも、間に合わないから12時のフェリーに乗りますよ!」と返答すると「12時のフェリーは欠航になる可能性があるし、10時45分のフェリーはまだ間に合うから走ってください!」と言って、フェリー乗り場の人とも連絡を取ってくれて乗せてもらえた。
そして、無事に竹生島に上陸。
竹生島に上陸した後、悪天候だったのにピカーっと晴れ始めて、その後また吹雪の中、島のあちこちにいる神様にお参りしてたらお迎えのフェリーが来た。
「これが最終便になります!今津港のお客さんは全員乗ってください!」と言われ、私が乗った後のフェリーが全便欠航になって、私が乗ったフェリーが最終便になったことをそこで知った。
当初乗る予定だった12時発のフェリーは欠航。
やっぱり素晴らしいタイミング。
島のお店の人、フェリー乗り場の人、その後に回った近江今津駅周辺のお店の人に「熊本から来たんです」と話をしていたら
「あんた、相当持ってるね」と毎度感心された。
最初にも書いたけど、この竹生島は3度4度と挑戦しても渡れない人がたくさんいるくらい本当に人を選ぶ島らしい。
特に、この季節はほとんどの便が欠航になるらしい。
私は大学4年間を滋賀県に住んでいたのに竹生島の存在を知らなくて、去年の10月にこの竹生島の神様に呼ばれるまで意識にもなかった。
滋賀県に住むたくさんの友人たちでさえも「渡ったことがない」「存在すら知らなかった」「おじいちゃんから、あの島は恐ろしい場所だと聞いたことがある」など、何かと不思議な存在のようだ。
ちなみに、姫路からの電車も遅れていたし、それを聞いたフェリー乗り場の人たちもその奇跡のような出来事にみんなビックリしていた。
島を出る頃、吹雪いてはいたもののクッキリハッキリと見えていた竹生島だが、一旦島から出航すると数分も経たずにあっという間に吹雪の中に消えていって、まるで夢の中にいるみたいな不思議な島だった。
あえて多くは語らないが感想を述べるとすると「本当に行って良かった」ということ。
そして、フェリー乗り場に戻って遥か遠くに見える竹生島を改めて見てみると、さっきまでの悪天候が嘘のように穏やかな景色になっていた。

次の予定まで随分と時間があったので、フェリー乗り場の係員さんからもらった駅周辺の地図を見ながら駅周辺のお店を回ったり、喫茶店でパフェを食べたり、地図を見ているにも関わらず道に迷ってグルグルしながら時間を潰していたら、時間になったので次の目的地へと移動。

大学時代にガストのキッチンでバイトをしていて、その古巣のガストで当時から仲の良かった友人3人と20年ぶりに再会。
いつも連絡を取っているとはいえ、実際に会って話すことは全くの別物だ。
10代で出会った我々がもう40歳を超えていてなんだかとても不思議な感覚だった。
それぞれにたくさんの経験をしてレベルアップしていたり。

当時から私の特性というか、よく言えば「人間的な魅力」悪く言えば「異質なキャラ」みたいなものを見抜いていたらしく(当時は本人に自覚は無かった)そういうのを理解した上でとことん受け止めてくれていたことを知って、ひたすらに感謝の気持ちが溢れてきた。
私は大学1回生の時に学業に支障が出ないように夜22時〜朝5時までガストでバイトをしていて、少し仮眠を取って授業に出るか、もう一切寝ずに授業に出るか、琵琶湖を少し散歩したり(徒歩5分)、余裕がある時はバイト上がりに公園でキャッチボールをしてから学校に通っていた。
朝の5時にバイトが終わって裏口から出た時にそこから見える朝日が本当に綺麗で、日の出が遅い時は朝日が昇るまでそこでみんなで色々な話をしたりして、今思えばすごい青春していたんだなぁ…と。
今は簡素化されたらしいが、当時のガストのキッチンは本当に過酷で(飲食店のバイトを多数経験した友人がガストのキッチンが一番しんどかったと言ってたくらい)毎日クッタクタだったけど、みんながいてくれたからきっと頑張れたんだと思う。

そんなことをグダグダ喋って、最後はみんなで駅まで送ってくれて「また帰って来てな!」と握手をして電車に乗った。
そういえば、20年前に滋賀県を離れる時もそんな風に握手をして別れた気がする。
そんな暖かな気持ちの中、電車に揺られ宿泊先へ。
利便性を考えて駅から徒歩1分のカプセルホテルを予約したのだけど、この感覚過敏の塊のような私が熟睡できるような場所ではないことは、ドアを開けた瞬間に悟ったし、案の定、カプセルホテルを二度と予約することはないと思う(遠い目)
だけど、心はホクホクしていた。
ご飯もご馳走になって感謝。ジーン(涙)

●3月22日(金)旅の4日目


この日は朝から母校の「成安造形大学」へ。
同期の友人が大学の職員として働いているので色々と案内してもらえることに。
入学当時に学んでいた教室。
卒業時に学んでいた教室。
時代と共に変化をしていた部分もそれなりにあったけど、基本的には当時のままだった。
あの頃、見ていた景色がそこにはあったし、自分らしく生きることができなくて苦しんでいた「何者でもなかった未熟な私」のことも無条件に受け入れてくれたあの環境は今も私の心を支えている。
大学は高台にあるので、運動場の端に行くとJR湖西線とその向こう側に琵琶湖が見える。
私はそこから見る景色が本当に大好きで、今でも目を瞑ると当時の風景や空気感がそのまま瞼の裏に鮮明と浮かび上がってきて、胸がキューっと締め付けられるような感覚になって、何とも表現し難い感情が溢れてきて今でも涙が溢れるのだ。
友人が大学内を案内してくれて、当時からいる先生や先輩たちが20年近くも経ってるのに、私のことを覚えていてくれたり。
「おかえりー!」「(TARO賞のこと)おめでとー!」と温かく迎えてくれて、「この大学に通えて良かったな」と心から思った。
少人数が売りの大学だったこともあって、常に自分専用の机(居場所)があったし、先生や先輩や学部を越えた繋がりもあって、とてもアットホームで家族みたいな環境に感謝しかないと、改めてここで4年間を過ごせたことを有難く思う。
友人は私を案内するために半休を取ってくれて、お昼ご飯もご馳走してくれて、「今日は先輩友人の家に泊まるんだ」ということを話していたら、お土産まで買って持たせてくれた。ジーン(涙)

夕方頃、本日宿泊予定先の先輩友人が仕事終わりに大学まで迎えに来てくれた。
少人数の大学だったので、案内してくれた友人と先輩友人ももちろん面識あり。
2人も20年以上ぶりに会ったらしく、「つんのおかげで再会できたし、ありがとう!」と感謝される。いやいや、感謝するのはこっちの方だよ…とまた胸がジーン。
同期の友人と別れて、先輩友人の自宅へ。
ここは滋賀県に来たら必ず泊まる友人の実家。
本当にあったかい家で、友人夫婦や親や弟夫婦やいとこや近所の人も初対面なのに一緒にご飯を食べたり、出かけたり、けん玉をしたり、トランプをしたり…をナチュラルにできる貴重な場所。
泊まりに行く度に「はじめまして」みたいな人が必ずいて、それでもなぜかワイワイ楽しめる不思議な場所。
最後に泊まってから10年以上経って、それぞれに家族構成が変わって友人のところには子どもが生まれ、弟夫婦は県外に引っ越し、お母さんは出掛けていなかったけど、それでも、県外に住む弟夫婦と1時間以上テレビ電話をしたりした。
弟夫婦の奥さんのおばさんが私と話をしたいと言うので、弟が自身のスマホでおばさんにテレビ電話を繋げ、テレビ電話同士に加えて更に別のスマホの画面を映しながら会話をするというカオスな展開に(笑)

先輩友人は仕事で疲れてるのに、買い物にも行って、子どもたちもみんなで手作りの餃子を作ってくれて、本当に良い夜だった。
先輩友人の旦那さん(この人も友人)も帰って来て久しぶりに会えて、部屋に入って来るなり昔からのテンションと変わりなく「つんつーーーーん!わーーー!つんやーーー!」と笑顔を見せてくれた。
みんなそれぞれに仕事や予定があって忙しいから、昔みたいに朝方まで遊んだり話したりすることは無くなったけど、友人の子が敷いてくれたお布団でぐっすりと眠ることができた。
前日のカプセルホテルで熟睡できなかったので本当に有り難かった。
お布団の横にはお気に入りのぬいぐるみたちが何個もセットされていて、枕の上には小さな小さなインコのフィギュアがセットされていた。
友人の子なりの「おもてなし」だったらしい。可愛すぎる。
次の日も先輩友人は予定があって忙しい中で駅まで送ってくれて「はい、これ、おやつ」と袋にいろんなお菓子を詰めて持たせてくれた。ジーン(涙)

●3月23日(土)旅の5日目


滋賀県から岡山県へ。
この日は岡山にある「451BOOKS」へ。
ここも本当に久しぶりに訪れた。
店長と奥さんのゆきさんとは度々連絡を取っていたし、ネットで本を注文していたけど、やっぱり「リアルの良さ」には敵わない。
魅力的な店内。そこにいるだけでワクワクが止まらない空間。
451BOOKSは、私がアーティスト活動を始めた17年前に初めて自分の作品を売り込みに行ったお店だ。
まだまだ未熟だった私の作品を最初に取り扱ってくださったお店。
そこからのご縁で今も変わらず仲良くしてくださっている。
17年前、アーティストして初めて個展を開いたのも岡山だった。
「当時の個展会場に観に行きたい」と言う私のお願いにも快く応じてくださったし、「岡本太郎賞を受賞したつんちゃんに見せたいものがある」と岡本太郎さんが制作した壁画のある場所にも連れて行ってくださった。
17年前から変わらずずっと応援してくださり、無名だった私にはとても心強い存在だ。
私の作る作品のファンでもあり「つんちゃんはもっと表に出た方がいい」と17年前から言い続けていたお2人。
なかなか勇気が出なくて潜ってばかりだったけど今回の岡本太郎賞受賞のこともめちゃくちゃ喜んでもらえて、なんとなく恩返しができたようなそんな気持ち。
お昼ご飯、夜ご飯、その後のカフェもご馳走してくださり、お店で買ったたくさんの本を「旅の間、重たいだろうから」という理由でお土産と共に送ってくださることに。ここでも、ジーン(涙)
最後はホテルまで送ってくださって、また会いに来ることを約束して私はホテルへ。

●3月24日(日)旅の6日目


岡山県から香川県高松市へ。
雨が降っていて、せっかくの瀬戸大橋からの景色はほとんど見えず。
22年前に同じ場所を通った時は天気が良かったから、その風景を思い出しながらしみじみ。
無事に高松駅へ到着。
駅前で署名をしていた複数のマダムに囲まれ、いろいろとやりとりしていたらめちゃくちゃ気に入られて、最後はマダム全員からお見送りされるという毎度お馴染みの光景に「うふふ」となりながら、「ことでん」乗り場へ。
みかん色のかわいい電車に乗って、目的地の完全予約制の古本屋「なタ書」へ。

この「なタ書」がある商店街、とても広くて、活気があって魅力的だった。
どんどん廃れてシャッター街になっていく各地の商店街もきっとかつてはこんな風だったんだろうな…と思うと、胸がキューっと締め付けられた。

話を戻そう。
せっかく香川に来たのだからうどんでも食べようと商店街をウロウロするけど見つからなかったり、すでに完売して閉店していたり。
13時に予約を入れていたのでうどんは諦めて、たい焼きを買うことに。
このたい焼きが、後の私の空腹を救ってくれるので、結果オーライ。
13時に恐る恐る店内へ入ると、店主の藤井さん(キキさん)と手作りで作られたという素晴らしい空間が出迎えてくださった。
キキさんとはいくつか共通点があったので、すぐに馴染んだ。
噂で、店主のキキさんはめちゃくちゃく自由な人だと聞いていたが、初対面の私に「今からNHKの取材が来るんですけど、スマホの充電器を買いに行きたいので、つんさんが対応しておいてください」と言って、本当に出かけてしまった。パンチがあり過ぎる…
この日はたまたまNHKの密着取材の最終日だったらしく、私ともう一人いたお客さんがそれに急遽エキストラとして登場することに。
(後日談として)、そのシーンはバッサリとカットされていたそうだ。
私ともう一人のお客さんの撮影シーンが終わった後、撮影に邪魔になるからと別の部屋に追いやられ(←言い方)、そこでそのお客さんと話していたら普段は東京に住んでいて、たまたま実家のある岡山に帰省して、そしてX(旧Twitter)で「なタ書」のオープンを知り(私が予約したからオープンになった)訪れたらしい。
いろいろと話を聞いていると、テレビ慣れしている方だった。
どうりで、撮影時も違和感なく落ち着いて対応していたわけだ。
店内で本を選んでいる時間よりも、彼と話している時間の方が長かったが、お互いの話で盛り上がり、楽しい時間を過ごせた。
本当に偶然たまたま「その瞬間に居合わせただけ」なのに、本当に不思議なご縁。
彼はその後、東京に戻り、TARO賞も観に来てくださった。ジーン(涙)

宿までの移動時間のタイムリミットが迫っていたので、後ろ髪を引かれる想いでお店を後にして、再び「ことでん」を乗り継いで高松駅へ。
署名運動をしていたマダムたちはそこにはもういなかった。
そこからは55駅5時間の移動(四国恐るべし)
連日の旅の疲れも出てきているしホテルに着いたらお風呂に入ってチャッチャと寝たいけど、夜ご飯をホテルに着いてから食べていたら遅くなるから、そこのとこのスケジュールをどうしようか…と考えていたら途中の駅で30分停車するというアナウンスが。
速攻で電車を降りて改札を出て(これ、18きっぷのメリット)コンビニにダッシュ。
夜ご飯と本来買わなくて良かった朝ご飯を買って(朝食付きのプランを予約していたことを忘れていた。結果として次の日に食べるお昼ご飯になったのでこれも結果オーライ)、トイレにも行けて(電車にトイレがないので5時間我慢しないといけない)再び、電車に乗ることができた。
ほら、やっぱり人生は常に最善なことしか起こらないのだ。
3人くらいしか乗ってない車内でボリボリとキュウリを食べながら、そんな「最善」にニヤニヤする私。
夜遅くに、宿泊先の松山へ。

●3月25日(月)旅の7日目


松山から下灘駅、そして、再び岡山へ。
この日は前日よりも移動距離があったので早めにチェックアウトして目的地へ向かう。
22年ぶりに「下灘駅」へ。
22年前に「青春18きっぷ」のポスターの写真にこの下灘駅が使われていて、当時大学2回生だった私はこの駅に行きたくて鈍行で日本縦断の旅をする計画を立てたのだった。
利用者も電車の利用者のみ…といった感じで数名程度だったし、わざわざここで写真撮影をする人もほぼいない…という感じだった。
だから、世間にはまだそんなに知られていない駅だった。
それが、近年のテレビやSNSの影響ですごいたくさんの人で溢れていた。
正直、すごく戸惑ったし、22年前の記憶とのギャップがあり過ぎて、心がついていけなくてオロオロしてしまったけど、せっかくここまで来たのだから人の多さに怖気付いてる場合ではないので勇気を出して写真撮影をお願いしてみることに。
22年前の日本縦断の旅の時は友人と一緒だったけど、今回は完全な一人旅。
一人旅の自由さは何物にも変えられないけど、こういう時に「誰かがいてくれたら…」みたいなことは少しだけ思ったりはした。
でも、一人旅万歳。マイペースな私は断然一人旅派だ。

次の電車まで2時間半あったので、そこにいた人たちに話しかけたり、撮影し合ったりして時間を潰す。
それでもほとんどの人がレンタカーで来た人だったし、2人組の年下女子は私が話しかけると少し困惑してる様子だったし、あまり多くの時間を共に過ごすことはできなかった。
そんな中、とある4人組の家族が私に写真撮影をお願いしてきた。
そこで随分と仲良くなって、最後にみんなでお見送りをしてくれた。
2歳くらいの子と5歳くらいの子。
お兄ちゃんは自分専用のカメラを持っていた。
お母さんは「子ども用のおもちゃのカメラだ」と言っていたが、画質は劣るものの、なんとなくちゃんと写っている。
時代のハイテクさに感動しつつ、そんな大事なカメラで私を何度も撮影してくれた。
電車が発車するとみんなが手を振ってくれて、お兄ちゃんは走って電車を追いかけてきてくれて、そんな姿に涙が溢れた。ジーン(涙)
またどこかで会えたらいいな。

そして、最後にどうしても撮影したいアングルがあって、4人家族の皆さんはその間はレンタカーでどこかへ行かれていたので、たまたま待合室のベンチで隣に座っていた人に撮影をお願いすることに。
すごく大きなカメラを下げていたので、「この人なら私がお願いした画角の写真を撮ってくれそう」という淡い期待を持ちながら「こういう写真の、このアングルで、こう撮りたい」というワガママを伝えたら「このアングルで撮影すると暗くなるので、こういうパターンも撮影してみました」と何枚も撮影してくださっていて、しかも、画角の歪みも全く無いし、めちゃくちゃ感動した。仕事ができる(←どの目線から言ってるのか笑)
日本人だと思っていたら、とても親切な韓国の方だった。
いろいろと話していたら、宿泊先が同じ岡山で、「何かの縁ですね〜」などと話した。
いろいろな人と話したけど、みんな松山とか高知に泊まると言っていて、岡山に泊まる人なんて私くらいなものだった。
そりゃそうだ。下灘駅から岡山駅まで鈍行で7時間もかかるのだ。
その韓国の方は特急で岡山まで向かうとのことで私とは移動時間が違うので、私はお先に電車に乗ることに。
電車が来るギリギリに知り合ったのであまりたくさん話せなかったけどとりあえず連絡先を交換して私は2時間半待った電車に乗った。
そして、違う電車の中で連絡を取りながら「せっかくなので夜ご飯を一緒に食べましょう」ということになり、すっかりと夜になってしまった岡山駅で待ち合わせをして夜ご飯を食べに行った。
私は「良いことがあった日には、オムライスを食べる」と自分なりのルールを決めていて、たくさんの良いことがあった1日だったので「オムライスを食べたい」と提案すると「日本の方は良いことがあった日はオムライスを食べるのですか?」と聞かれ、ウソは教えてはいけないので「無いですよ。私の中だけのルールです」ときちんと説明しておいた。
そして「ツンデレ」という日本語についても説明したら、とても感動された。
人は何か知らないことを知った時、こんな顔をするのか…というくらいキラキラした顔で説明を聞いてくれた。
ご飯を食べる間、韓国のいろいろなこと、日本にいたら絶対に気付くことができなかった日本の素敵なところ、逆に、韓国人からみたら不思議な日本人の行動など話してくれた。
この日を境に、毎日当たり前に見ていたこの景色がとても尊いものなのだな…と思うようになった。
お店が閉店時間になり、お互いにそれぞれホテルへ帰るために外に出たが、入店した時と出口が違っていたために現在地がわからなくなり、私が「では、私はこっちなので」とGoogleマップを見ながらホテルの方向へ向かおうとしたら全然方向が違ったようで、結局は岡山に初上陸した韓国人にホテルまで送ってもらった。
自信満々に言うことではないけど、私、岡山にもう10回くらい来てるんだよ(遠い目)
岡山駅からたったの5分なのに迷う私を見て「つんさん、もしかして方向音痴ですか?」と聞かれ「いえ、違います!(キリッ)」と返答。
Googleマップを見ながら「ナビはこっちを指してるけど、私の勘はこっちだと思う」とまた違う方向に行こうとして「つんさん、やっぱり方向音痴でしょ?」と聞かれるが「いえ、違います!(キリッ)」と返答。
「方向音痴って認めたら楽になるのに」と笑う韓国人。
いや、だって、生まれてこの方、一度だって自分のことを方向音痴だと思ったこともないし、道に迷って困ったこともない(今思えば、竹生島に行ったあの日、地図を見てるのに目的地に辿り着けなかったことを思い出した)
でも、あの日から過去のいろいろなことを思い出すと「私は方向音痴かもしれない」と思う出来事がたくさんあったことに気がついた(43年目に知る真実。雷に打たれたような衝撃が走った)
そして、いつものように帰り際に握手を求めたら「日本の方は別れ際に握手をするのですか?」と聞かれて、間違った文化を教えるわけにはいかないので「いいえ、これも私の中のルールです。だって、こうやって会えるのもこれが最初で最後からもしれないですから。私はいつもそんな気持ちで皆さんと握手をして別れるのですよ」と言ったらそれに応えてくださったのだけど、「結構、強く握るんですね…」とビックリされて、「それだけの想いを込めてます」と言ったらそれにも納得してださって、最後はしっかりと握手をして「またいつかどこかで会えたらいいですね」と言って、それぞれの宿泊先へと向かった。

私は別れ際に握手をする時『この人がこれから先も元気で幸せでいられますように』という祈りにも似た感情を持って握手をする。
普段一緒に住んでいない父や母と別れる時もいつも握手をしている。
すぐに会いに行ける距離ではないから、「もしかしたら、これが父や母の温もりを感じられる最後の瞬間かもしれない」とその感触をしっかりと右手に刻むように、握手をする。
事実、コロナ禍もあったりでずっと会えなかった祖母が数年前に亡くなったが、最後の握手の感触を私の右手は今もしっかりと覚えている。

話を戻すが、この韓国の方はその後、TARO賞も観に来てくださった。
そして、TARO賞での別れ際はしっかりと力強く両手で握手してくださった。
「私だけの文化」が海を越えた瞬間を感じた。ジーン(涙)

●3月26日(火)旅の8日目


岡山県から実家のある北九州市へ。
ここからはほぼ移動するだけの消化試合。
それでも楽しみは見つけたい欲張りな私は、車窓を満喫。
途中の乗り換え駅で傘を車内に忘れて電車を降りようとしていたおじいさんがいて、「傘、お忘れですよ!」と声をかけたらすごく感謝された。
おじいさんも傘も悲しい想いをしなくて済んだから良かった〜と喜んでいたら、次に乗る電車も同じで「あら、お姉さん!先程はありがとうね!もしかして18きっぷ?どこまで行くの?」と聞かれ「いえいえ!傘、忘れなくて良かったですね!◯◯まで行きますよ!」「僕は◯◯までだから、僕が先に降りますね!くれぐれも気をつけて行ってくださいね」「ありがとうございます!そちら様もお気をつけて!楽しい旅を!」と言って別れた。
やっぱり、旅っていいな。ジーン(涙)

話は飛ぶけど、今回の旅で辛かったことが1つあった。
それはあまりにも忘れ物や落とし物が多いということ。
目の前で忘れ物をしそうになった人には声をかけたし、落とし物をした人にも何百メートルも走って追いかけて渡したりしたけど、電車が出発した後にさっきまで座っていた人のベンチに置いてあった忘れ物の悲しむ声を聞いた時は胸が張り裂けそうになった。
そして、誰かがずっとずっと昔に忘れて行ったであろう自転車の鍵がフェンスに結び付けられていた光景は目に焼きついて離れない。
雨に濡れて錆びていて、持ち主の元へ帰れないし、それがとても辛かった。
だから、どうか皆さん。
忘れ物、落とし物をしないであげてください。
物たちが悲しまなくて済むように、ずっと大切な人の元で過ごせるように私は心から願っています。

話を戻そう。
この日は事故の影響で電車に大幅な遅れが出ていた。
九州を目の前にして、この旅の途中から集め始めた記念スタンプを押すために途中の駅で下車したらまさかの乗る予定だった電車に乗り遅れた。
そこからは開き直って、全ての駅で降りてスタンプを押して帰ろうかと思ったが、調べてみたらとんでもない量のスタンプがあることを知って、また次回の楽しみにすることにした(賢明な判断)

実家の最寄駅に着く頃には、すっかり夜になっていた。
真っ暗な夜道を歩きながら、旅の間に起こったワクワクドキドキすることを共有するために友人と電話をしていた。
実家近くの角を曲がると、薄暗い電灯に照らされた道の先に母のシルエットが見えた。
すっかり小さくなった母が、両手を大きく挙げて手を振ってくれた。
誰かが私の帰りを待っていてくれる。
とても温かい気持ちになった。
その日も姉の家に泊まった。
8日前に「行ってきます」と行って出かけた姉の家。
甥っ子姪っ子も出迎えてくれて、旅であったことをたくさん話した。
仕事上がりの弟夫婦も駆けつけてくれた。
話し足りなかったけど、私がとにかく楽しい時間を過ごしたことは逐一ストーリーで実況していたInstagramを通して知ってくれていたから、モーマンタイ。
その日は長旅の疲れを癒すように、泥のように眠った。

●3月27日(水)旅の9日目


実家のある北九州市から熊本へ。
ここからはもう自宅へ帰るだけだったので、昼過ぎまでゆっくり過ごした。
母が持たせてくれた大きなおにぎり。
あと何回、このおにぎりを食べられるんだろう…なんて考えてたら、電車の中なのに涙が止まらなかった。
自宅へ着く頃、とても綺麗な夕日が見えた。
そんな夕日を見ながら、言葉にできない達成感でいっぱいだった。
生きている間に、絶対にまた旅で訪れよう。

●最後に。


今回の旅の目的の「会いたい人に会いに行く。行きたい場所に行く」は、
相手の都合もあって、全ては叶えることはできなかったけど、それでも20年近くも自分の中で燻っていた気持ちを満たしてあげられたことが何よりも嬉しかった。
生きている間に出会える人、その中でも二度、三度と何度も関われる人が一体どれだけいるのだろう。
あとどのくらい生きられるのかなんて誰にもわからない。
だからこそ、「会いたい!」「行きたい!」と思ったら、この想いに正直になって行動してみてほしい。
この記事が、そんな小さなキッカケになれたら幸いです。
過去最高の13000文字超えの長い長い文章。
最後まで読んでくださった方がいたとしたら、あなたの大切な命の時間を割いてくれた分、私は全身全霊であなたの幸せを祈ります。

時間を作ってくださった皆さん
旅中に出会ってくださった皆さん
そして、Instagramのストーリーを観てくださった皆さん
そしてそして、このnoteを最後まで読んでくださった、あなた。

本当に本当にありがとうございましたーーー!!!

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