闇の向こうへ

 今年は1尾も獲れなかった。
 その次の年もゼロだった。
 次の年も。次の年も。
 彼らが食卓に並ぶことを心待ちにしていた都市の人々も、生業にしていた漁師たちも、モニタリングを続けて警鐘を鳴らし続けていた研究者たちも、この突然の消滅には焦りと危機感と、状況によっては絶望を覚えた。自分たちの立たされている場所は、もう後戻りができない場所なのだと、実感をもって気付かされた。
 それでも、数年が経ち、おにぎりの具や、彼らを使った加工食品や、切り身が跡形もなく消え去って、人々の多くが、漁の主軸を、かつてはより温暖な海域で獲れた魚種に変えた漁師たちでさえ忘れつつあった。研究者たちは、迫りくる破局を無視できないまま、そして、自分たちが親しんでいた魚の絶滅を忘れられないまま、取り残された。
 10年が経った。多くの者が、「サケ」という、かつて北国を中心に河川に遡上し、北方の民族では神の恵みとして扱われ、数多の文化を育んできたその魚の名を、忘却の彼方に置き去りにしつつあった。
 何が直接の原因だったのかは、未だわかっていなかった。時々ニュースで取り上げられるだけで、サケ科魚類の陸封個体群を除く殆どが全く獲れなくなったという異常事態について、歯がゆく思っている研究者たちでさえ、原因を突き止めることはできなかった。ただ、消滅の数年前から、北方の海域全体が、サケの回遊に相応しい水温ではなくなりつつある、ということについて、警告はされていた。されては、いた。
 異常気象は増えつつあり、サケに費やす調査費用は多くの機関で削られ、どこかに生き残りがいないか、母川以外に遡上している可能性がないか、という徹底的な調査は、行われず仕舞いだった。
 
 再びサケを見た、という情報が寄せられたのは、数十年が経過し、サケが「かつて絶滅した過去の魚」と市井に見なされてからだった。
 
 誰もが待ち望んだ母川への遡上ではなかった。かといって、未だに回遊している個体が、沿岸や沖合で捕獲されたわけでもなかった。水深6000m付近、とある海溝を調査していた無人潜水艇が、一瞬だけ、サケのように見える魚の姿を捉えたのだ。
 元々、サケは海で過ごす間、浅い表層と、比較的深い水深とを行ったり来たりして過ごす。深海の冷たい海に順応した個体がいてもおかしくないのではないか、と、かつてサケを研究していた老齢の研究者は語った。それにしてもあまりに深すぎるのではないか、という批判も、当然飛んだ。
 この時点で、深海性の魚類を「未利用魚」として利用する風潮は加速していた。周辺海域に、魚類やイカが少なくなってきたから、というのも理由の1つだった。深海性の魚の中には、成熟年齢、つまり産卵が可能になる年齢まで長い時間がかかる種もいるのだが、もはやそれを気にしていられるほど、魚介類の需要は少なくなかった。サケという、数十年前にはたくさん獲れた魚種が深海に生き残っているなら、他の深海魚に代わる資源になるかもしれない、とまで思われていた。
 サケを求めて、海溝の周辺で徹底的な調査が行われた。本来、サケ科魚類は河川を由来とするのではないか、サケですら、生まれた河川を遡上して産卵するのでは、という声は、小さかった。人間の前から姿を消して数十年が経過し、もはや、サケのかつての生態を知る人間の方が少なかった。時代を経ておろそかになった河川の保全によって、陸封されたサケ科魚類が暮らせる水域は、もう残っていなかった。
 綿密な調査にも関わらず、それから数十年、サケが再び見つかることはなかった。
 
 異常気象や、それによる自然災害の増加と、飢饉に見舞われるようになった。そしてサケが消滅して100年が過ぎようとしていた。
 私は、サケの話を聞かされて育った。曽祖父は、サケについて、当時の水産技術センターで研究を続け、サケがいなくなったあとも、その消滅の原因を調べようとしていたらしい。もっとも、他の業務に忙殺されて、大した成果は出なかったようだが。
 紆余曲折を経て、海外主導の海底資源調査、その潜水艇のオペレーターに就いた私は、時々、暗い海底に見えるナマコやヨコエビや、時には、ずいぶん少なくなったように見える魚類の姿に懐かしいものを感じながら、業務を行っていた。
 その日も、海溝の入り口でイソギンチャクの仲間を横目に見ながら、研究者たちのリクエストに答えて、海底地形を見て回っていた。
 最初に、カメラの端に動く銀色の影に気づいたのは、研究者の1人だった。
 好奇心を抑えられなかったのか、皆がそっちに潜水艇を動かすように指示する。
 私はそれに従い、潜水艇を動かした。
 
 銀色の、流線型。精悍な顔。背中には、背鰭だけでなく、脂鰭も見える。
 間違いなかった。
 研究者たちが、口々に「なんだあれは」と叫ぶ。私は何も言えなかった。
 次の瞬間、身を翻して、海溝の奥深くへと泳いでいく。
 追いかけたかったが、潜水艇のスペックではついていけない。
 あっという間に消えてしまった。
 
 あれから、ジリ貧になっていく世界を見ながら思う。あの海溝の向こうに、彼らはいるのではないか。ここではない、彼らには希望のない世界を見限って、どこかへ。きっと彼らだけではない。滅び去ったと思っていたものたち、滅びつつあるものたちが、あの闇の向こう側で暮らしているのかもしれない。私達には、そこへ行く資格があるだろうか。
 ある詩人の言葉を思い出す。かつて空を埋め尽くした鳥が、その姿を消したように、彼らはもう、我々の前には現れないのだろう。
 サケは去ってしまったのだ。

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