もう一つの選択肢

 カウントダウンが始まる、3,2,1…
 エレベーターに乗った時、あるいは飛行機が上昇・下降している時のような、三半規管が引っ張られるような感覚、頭の奥に自分の意識が集中していくような、不思議な感じ。それを10秒ほど味わった後、目を閉じたまま、自分はどこかに着地するような感覚を得る。
 目を開けていてもいいけれど、たぶん酔うだろうから、初心者は閉じてた方が無難かもね。
 そう言った友人の声が思い出される。どうだろう、そろそろ目を開けていいだろうか。
 『お待たせ、ちょっと待ってね、今は念のため感覚を遮断している状態だから』
 何も見えない、何の香りもしないなかで、頭の中に声が響く。スタッフの人たちの喧騒が、友人のマイク音に混ざって聞こえてくる。
 『五感を一気に開くんで、気分が悪くなったら教えてね、喋れなくっても、そっちは脳内で言語化するだけで大丈夫だから』
 わかった。
 そう明確に頭の中で呟き、僕はその瞬間を待つ。
 まず開かれたのは、味覚だった。続いて触覚、周辺の空間では風が吹いているのか、肌を、いや、毛皮の表面を撫でる感覚が気持ちいい。少し頭を振るだけで、鼻のあたりの感覚、たぶんひげの感覚だろうが、それが揺らぐのがわかる。どうやら、足場は安定しているようだ。平衡感覚にも問題はない。続いて目の前が明るくなる。と言っても少しぼんやりとしている。色も褪せたような感じで、周囲の識別は容易ではない。どうやら草むらか何かにいるようだが、判然としない。この辺は慣れの問題だろうが、元々視覚が発達していた動物なのだから、無理もないことだ。視野もまるで魚眼レンズでもかけているかのように、以前よりも後ろを見渡せたし、逆にピントが合う部分は狭くなっている。
 びっくりしたのは、次だ。草むらを風が吹く音が、こんなにも大きく聞こえるなんて。雷が鳴ったりしたら耳が潰れてしまいそうだ。本来どうやって、そんな聴覚で暮らしているのか聞いてみないとな、と思った瞬間、最後に世界が一気に鮮やかになった。この感覚は言語化できない。視覚がそのままなのに、まるで色のように嗅いでいる匂いそれぞれが、新鮮に識別できるような感覚。よくわかった。こんな鋭敏な感覚があれば、視覚に頼ったりせずとも暮らしていけるだろう。身体の状態は今の自分にピッタリ合う。そんな喜びを抑えきれずに、今はとにかく駆け出したかった。
 『上手くいったようだね、6番目の実験となると、流石にスムーズに進むようになった』
 『ありがとうございます。彼の協力があってこそです、自分もいつか使ってみたいなあ』
 『君の人選があってこそだよ。着ぐるみやメイク、精神的なものなど、昔の人は色んな方法で獣化を試してきたんだ。ニューロンダイブVRで感覚的に動物になるのも、様々な方法で獣化が試されている今なら選択肢として提供できる。彼も、嬉しそうじゃないか』
 何かマイクの向こうで話しているようだが、あまり気にはならなかった。もう人間の世界に興味を失くしつつあるのかもしれない。
 これが僕だ。これこそが僕がなりたかった、本当の僕の姿なんだ。
 嬉しくなって、どこまでも響いていけと言わんばかりに、遠吠えをした。

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