眼の向こう側

 極彩色の旗が空を舞い、数多のパビリオンが軒を連ねる。上から見れば、それはさながら色とりどりのお花畑か、あるいは熱帯の海の魚たちか。パビリオンの間を縫うように移動する来場者たちも含めて、色の洪水とも言える光景だ。そんな雰囲気に圧倒され、彼女は空間の中央に聳え立つ、古代ローマのコロッセオを模した巨大な建造物の前に立ちすくんでいた。
 「何ぼーっとしてんの?早く行こうよ!」
 隣に駆け寄ってきてカエルが急かす。正確には、ディフォルメされた動物のように、首から下は若干人間のような骨格をした二足歩行のカエルだ。夏場だと言うのにニットのセーターを身にまとったカエルは、彼女の手を取って上下左右に振り回す。もう待つのには飽き飽きだ、と言わんばかりの態度だった。
 彼女を挟んで、カエルの反対側にはカラスがいる。古代エジプト神話のホルス、その腕の代わりに翼を配したような鳥人の姿で、カエルよりもシルエットはより人間に近い。カエルとは対象的に落ち着いた雰囲気で、立ちすくむ彼女の背中を優しく押す。態度は真逆だが促していることはカエルと同じだった。早く行こう、と促している。
 彼女も彼女で、小さなヤギを二足歩行させた、絵本や童話の世界から飛び出して来たような姿をしていた。最初はそれこそ、シャワーを浴びせられたイヌかネコのように震え、怯えていた彼女だったが、カエルのやかましさに辟易したのか、それともカラスに勇気づけられたのか、生唾を飲み込むとコロッセオの中に入っていく。
 既に競技は始まっていた。コロッセオの中の大型モニターにはいくつもの映像が映し出され、競走馬たちが我先にとゴールを目指す様子が映っていた。現実の世界で開催されている競馬とほぼ変わりがない。ただ1つの大きな違いは、騎手がいないことだけ。
 モニターの前で歓声を上げる観客、そのほとんどが動物のような姿をしており、中には元の動物さながらに大声で声を張り上げる者も少なくない。モニターの下には大きな入口があって、そこからも多くの観客たちが出入りしていた。
 レースが一区切り付き、ハイライトの放送も終わったようだ。モニターにはコマーシャルが流れ始める。各国語でナレーションされているであろう、合成音声が、陽気な声で叫ぶ。
 「種を超えた動物の祭典、ATSワールドフェスにようこそ!」
 
 ここは現実の世界ではない。2020年代の、AIの急速な発展と同期するように広まった、いわゆるメタバースの1つだった。ヴァーチャルリアリティ技術の簡易化、低価格化が為されたことで、メタバースへの市民の参入障壁は一気に低くなり、かつてのソーシャルネットワークサービスに成り変わるほどに成長した。彼女が参加しているのはあるサービスにおけるワールドの1つであり、現在最も人気を博しているVRスポーツ、その数年に一度の祭典だった。
 
 子ヤギはカエルとカラスと共に目的の会場を目指す。人波に対する怯えは消えてきたが、自分はなんでここにいるのだろう、という嫌気が代わりに子ヤギの内面に満ちつつあった。元々、こういう人混みは好きではないし、色とりどりのワールドもそんなに気に入っていないのだ。ATSの熱烈なファンであるカラスやカエルに、チケットが3枚手に入ったから、みんなで行こうよ、と言われ、押し負けてしまったが故の現状だった。
 会場はVRであるため、そこにアクセスする観客はグループや接続先などによってほどよくインスタンスごとに分配される。現実のように、チケットを取りそこねた者が悔しい思いをすることにはならない。それは競技を見る誰もが画面越しであるからでもあったが、同時に競技を誰でも身近に見ることができるからでもあった。基本的に観覧ワールドへの出入りは自由で、ストリーミング配信も公式に実施されているから、誰でも競技を見られる。限られたチケットを巡って奪い合いが発生することはない。しかし、VIP席は別だ。競技を間近に見られるVIP席は、ある程度の金額がかかる代わりに、競技を間近に見ることができる。カエルとカラスがなんとか手に入れたチケットは、VIP席のためのものだった。
 ATS、アニマルトランスフォームドスポーツ。今の世界で最も熱い、動物たちによる種を超えた競技。ここで行われる競技の主役はヒトではない。動物たちだ。
 とは言っても本物の動物を使っているわけでは決してない。全てはVR上の映像であり、競技の参加者たちは動物の形のアバターと、特殊なヘッドセットを用いて競技を行っている、ヒトだ。
 わくわくを抑えきれないと言わんばかりのカエルと、落ち着きながらもうずうずしているカラスに挟まれて、子ヤギは人混みを進む。触覚は再現されていないため、実際の人混みのような圧迫感はないが、時々アバターが引っかかって動きづらい。コロッセオ内では各競技へのポータル、つまり観覧用ワールドへの入り口と、プロモーション用モニターが円形状に配置されている。競技数は20以上あるらしい。子ヤギたちの目指すポータルは入り口から少し離れた場所にあった。
 古来より人は、物語の中で様々に、動物に変身することを夢想してきた。その願いを、最新型のシナプス接続拡張型ヘッドセットで実現したのが、アニマルトランスフォーム、動物への変身技術だった。2030年代にこのタイプのヘッドセットが開発されて以降。多くのユーザーたちがVR上で動物に変身する感覚を味わってきた。
 この身体拡張を広めよう、と開催されたのがATSワールドフェスだ。様々な競技を通して、アニマルトランスフォームの面白さを伝え、かつて本物の動物を使っていた文化を途絶えさせないと同時に、動物の生態や形質について啓蒙し、自然保護や動物福祉へと繋げる。スポンサーはヘッドセットの開発企業などだが、VIPチケットの売上のほとんどが自然保護、動物福祉などを対象にした国際団体やNGOなどに寄付される。一般的には楽しいスポーツとしての認識が強いが、このイベントによってシナプス接続拡張型ヘッドセットの普及も広がり、動物に関する知識は数十年前より格段に市井に広まっていた。
 一行が歩いていく間に、様々な競技が視界に映る。さっき見た、競技者がウマなどの姿になって走るフリーランニング、鳥などの飛行動物になって曲芸飛行の点数を競うテクニカルフライ、オオカミやアリのような社会性のある動物になって、サッカーに似た蹴球を行うソーシャリティフットボールなどなど。刺激が強いので子ヤギたちの年齢では見ることができないが、バトルリング、という、強い動物になってトーナメント方式で最強を競う格闘技もある。どのポータルの前も、モニターを見て盛り上がる人でいっぱいだ。
 子ヤギが圧倒され、同時に、動物たちが躍動する姿に若干の興味を覚え始めた頃、カエルとカラスは足を止めた。他の競技と同じく、ポータルとモニターの組み合わせ。VIP専用、と書いている、チケットデータを持っていないと出現しないポータルに、カエルとカラスは駆け込んでいく。子ヤギも上の競技名を確認しつつ後を追った。「プレデターアンドプレイ」。
 「さすがはVIP席、見てよ、フィールドが全部見える」
 子ヤギたちは雲の形をした、空に浮かぶゴンドラの上で、ゲームが始まるのを待っていた。カエルは少し高いところが怖いのか、カラスにしがみついている。カラスは落ち着いていた様子とは打って変わって、興奮を隠しきれない様子だ。子ヤギはというと眼の前の光景と、プレイヤーたちの堂々とした振る舞い、そして見た目のたくましさに見とれて、口を半分開けたまま動いていない。
 プレデターアンドプレイはその名の通り、捕食者と被食者に分かれて広大なフィールドで追いかけっこをするチーム制競技だ。被食者側の首元にはビーコンがついていて、捕食者側はそれを破壊すると得点になる。ビーコンを壊されたプレイヤーは一時的に行動不能になるが、制限時間までメンバーが生き残っていればその分得点が入る。先攻と後攻で捕食者と被食者の立場を変え、アバターも変更し、再度同じように追いかけっこを行う。そして最終的に、先攻と後攻の得点を合わせて、高いほうが勝利する。2つの動物アバターを使い分ける必要があり、更に変身する動物も多様であるため、難易度が高い一方でファンの多い競技だった。
 子ヤギの真下では、ハイイロオオカミ率いる先攻チームと、アカシカ率いる後攻チームが互いに礼をし、先攻チームがフィールド中央の輪の中にスタンバイ、後攻チームが広大なフィールドを、準備時間が終わらぬ間に散らばっていく。配布された拡大用モニター、要は双眼鏡のようなツールを使って、時々プレイヤーの様子を拡大しながら、ゲーム開始を待っている。
 と、その時、先攻チームのキャプテンのハイイロオオカミが上空を確認した。たぶん臭いを嗅いだか何かなのだろうし、競技の妨げになることも鑑みて、プレイヤー側からはゴンドラは見えないはずだ。だが、子ヤギは、目があった、と感じた。自分のアバターが子ヤギだったからなのか、一瞬、捕食者に見つかったような悪寒が走り、同時に、こんなに美しい目を見るのは初めてだと感じる。そして、彼女はハイイロオオカミのキャプテンが背負っているものが、チームの栄光だけではないのではないか、という考えを抱いた。
GAME START!
 
 帰り道、高いところが怖かったのをすっかり忘れたカエルと、興奮冷めやらぬカラスが談笑している脇で、子ヤギはまだ夢見心地の中にいた。
 多くの競技はまだ続いている。応援していた、ハイイロオオカミのチームは次の試合で負けてしまったようだったが、それでも、なんとなく、オオカミたちは目的を果たしたのではないか、という思いになっていた。
 あのオオカミの目は、ただ勝利を望むものでも、競技への高揚でもなかった。もっと何か、違うものを感じたのだ。
 カエルとカラスと別れ、かといって会場の外に広がる展示用パビリオンに入ること無く、子ヤギはなんとなく観客の動物たちの群れをうろうろしている。やることもないので、椅子に座って動物たちを眺めていると、隣に誰かが座ってきた。
 間違いなく、あのオオカミだった。とはいえ、競技中と違って、顔はオオカミだが、シルエットは人間という感じのアバターだった。
 「あの」
 そう話しかけると、オオカミはたっぷり10秒ほど頭を抱えて、その後上を向いた。
 「ごめんなさい、ちょっと座らせて。アバターを何度も切り替えたから、酔っちゃって」
 情けないよね、とオオカミは顔から手を放して、息を大きく吐くような動作をした。横目で、子ヤギを見る。
 「VIP席から見ました。試合、かっこよかったです」
 オオカミはすぐに、ありがとう、楽しんでくれた?と訊いた。
 「楽しかったです。でも楽しいだけじゃなくって、応援したくなりました」
 「うちのチームを?」
 子ヤギは再び頷こうとして、固まった。違う。自分が応援したいのは、スポーツとか、チームとかじゃなくって、もっと別の。
 「オオカミを?」
 続いて、オオカミが訊く。そうでもなかった。失礼なことだろうとはわかっていた。でも、キャプテンたちが背負おうとしていたのは、きっと、オオカミだけではない。
 拙い言葉で、何を応援したかったのか、伝える。オオカミは一瞬だけ驚いたような表情をすると、満面の笑み、のような表情になって、そうか!と上を向いて目を閉じ、妙な、笑っているような、息苦しそうな表情になる。
 「ありがとう。VIP席のチケットは、きちんとそういう活動を行う団体に寄付されるんだ。みんな競技に夢中で、私達が伝えたいものを汲んでくれないと思ってた」
 鼻をスピスピとすするような音を響かせながら、ごめん、本格的に酔ってきちゃったからログアウトするね、と続ける。
 「その意気だよヤギさん、もっと応援してやってね、彼らを」
 そういうと、あっという間にオオカミは接続を切ってしまった。
 子ヤギは椅子にひとり取り残された。相変わらず色とりどりの動物の群れがひしめいている。来る時は目もくれなかった、あちこちに飾られた動物たちの写真が、息づいて見える。パビリオンの1つに自然と足が向く。息づく生命たちに思いを馳せながら、子ヤギはオオカミの置いていった言葉を、いつまでも反芻していた。

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