見出し画像

汚れなかった白

 百貨店の最上階、大催場にずらりと並ぶ市内全ての高校の制服の中で、私が三年間着続けることになる真っ白の夏のセーラー服と真っ黒の冬のセーラー服がいちばん美しかった。努力の末に手に入れることができたからではなく、贔屓目でもなく、事実としてどこよりも凛としている高校生になれる制服だった。

 中学三年の春には「かなり頑張らないと厳しい」と言われながらも滑り込みで入ることができた高校は、コの字型の校舎で、空いている縦の空間に「武道館」と呼ばれる畳の部屋と「アリーナ」といういわゆる体育館からなる建物を配置して、全ての面を閉じていた。その様と勉強漬けになる自分達を揶揄して、この学校の生徒たちはそこを「監獄」と呼ぶ。私が一年三組の教室に初めて入った日は校舎の耐震工事をしていて、窓から見える鉄骨がちょうどドラマや映画で見ていた牢屋の窓の格子に似ていた。クラスメイトたちは「まさに監獄」と面白がっていたが、いちばん美しい制服を纏っている私の心は晴れやかで、そこは広く荘厳な城だった。

 一年三組は男子に比べて女子が一人だけ多い四十一人のクラスで、担任はこの高校よりもひとつ頭のいいーーつまり県内トップの高校出身の女性の家庭科教師、副担任はこの高校を卒業した若い男性の数学教師だった。私はこの場にいる全ての人間がそれぞれの中学校では成績上位の生徒であり、その中でも学区外からきた数人は学区内の生徒よりもずっと頭が良いことを知っていたし、中学の時に通っていた塾で散々受けさせられた模試のおかげで、学校では無敵だとしても県内順位では調子が良い時でギリギリ二桁の自分の実力をわきまえてもいた。とは言え自分も学区外の人間ではあったから、学区内の子たちからの「わあ、あなたは合格者二十九人の狭き門をくぐり抜けてきたの?」という反応は私の気分をとても良くした。もちろん受験勉強は死に物狂いでやったし、夏休みの努力の成果が出た十一月には模試で自己最高の県内順位を叩き出し、三者面談では難しい顔しかしなかった塾長の顔が初めて満面の笑みになった。しかしそこがピークで、受験直前の模試では合格率七割だったから、合格できたのはただただ通知表の点数が良かったおかげなのだ。

 そうは言っても入ってしまえばこちらのもので、毎日誇らしい気持ちで制服を着て、胸を張って電車に乗った。最寄駅からこの高校の制服を着て乗る学生は私だけで、それがまた私を喜ばせた。私より遠い駅から乗る同級生も先輩もおらず、実質私がその地方でより田舎の中学校からその高校に合格した学生であることは、言葉にせずとも明らかだった。そんな気持ちで着る制服は同じ車両に乗っている子たちの制服よりずっと美麗に感じたし、いちばん素敵な黒に見えた。冬服は真っ黒なセーラー服だった。ベースの色はよくある紺ではなく漆黒で、セーラーカラーを縁取る三本の線もベースと同じ黒、絶妙にちょうどいい大きさと形のレースのリボンもきれいな黒。それに真っ黒のローファーと白の靴下を合わせる。セーラー服によくある胸当てがなくVの字になる首元は、他の高校のセーラー服よりもより一層大人な印象を与えた。十五歳。成人したいとまでは思わなくとも、十八歳のお姉さんくらいにはなりたい気持ちを抱えている「女の子」と「お姉さん」の間の年齢。私は早くお姉さんになりたかったし、できるだけお姉さんに見えるようになりたかった。そんな私にこの制服はぴったりだった。

 ゴールデンウィークが終わると冬服の季節が終わり、夏服に切り替わる。この高校は薄手の長袖のセーラー服を夏服、半袖のセーラー服を盛夏服と呼び、盛夏服に解禁日と終了日はあれど夏服から盛夏服に切り替わる期限は設けられていなかった。つまり、ひと夏を長袖の夏服で過ごすこともできるし、真夏は半袖で秋めいてきたら長袖に切り替えるといった選択も可能だった。ちなみに夏服よりも盛夏服の方が圧倒的にかわいい。夏服はこれといったポイントがなく他の高校に紛れてしまうほどパッとしない印象だったが、盛夏服はこれまたどの高校よりもかわいいセーラー服で、ベースの青みがかった白が輝き、セーラーカラーの三本線は深い藍色、胸元にはスカーフではなくかわいらしいぷりっとした藍色のリボンが乗る。最高のバランスで構成されているセーラー服で、一時の夏服で失われた自尊心が、真っ青な気持ちの良い空に向かってまたすくすくと育っていく。解禁日が来るやいなや盛夏服に着替えて過ごした高校一年の夏は、とても気持ちのいい季節だった。


 夏休みの宿題が終わらないと悟ったのは、夏休み後半の補講開始日の前日だった。この高校にとって、一学期の終業式と二学期の始業式は形式的なものでしかなく、終業式の翌週からお盆休みの前あたりまでほぼ通常の時間割と変わらない補講があり、お盆休み終わりから始業式の前日までも同じく後半の補講があった。それなのに夏休みの宿題は山のように出るのだ。大げさではなく本当に山になる。国語は現代文・古文・漢文のワークが一冊ずつ、数学は文系だったので数学1・2・A(数Bはまだだった)で先生たちの自作のプリント冊子が一冊ずつ(それぞれとても分厚い)、英語はなんだかもう思い出しもできないくらい大量に、現代社会も記憶に残らないほど出て、理科総合はワークが一冊。それに加えて夏休みらしく二千文字以上の作文を二つとこれまた二千文字以上の読書感想文。さすがに工作や自由研究はなかったものの、日々の補講の予習復習もしないといけない中でこの宿題の量は地獄だった。結局、国語と英語のワークは答えを写し、数学のプリントは母親にさせ、作文だけ真面目に書き、現代社会と理科総合は捨てた。しかも最悪なことに、これらの宿題の期限は後半の補習の最初、つまりお盆明けに全部提出する必要があった。終わるわけがない。もちろん終わらなかった。

 後半の補習初日の朝、制服が今まで感じたことがないほどに重たかった。一時間目が宿題を完全に放棄した理科総合だったのだ。授業の初めに回収される宿題を思うと腹痛がして、怒られることを想像すると吐き気がした。どうしたら今日一日を平穏に過ごせるかを考えた結果、その日は体調不良だと親に嘘をついて休むことを選んでしまった。最初の数時間こそ罪悪感に苛まれたものの、開き直って休んでみると案外快適だった。途中までしか終わっていない予習とそれを追い越そうとする授業の進行具合に動悸がすることもなければ、宿題を提出できないことを叱られることもないし、どこを当てられるかもわからない状況に緊張することもない。涼しい部屋で横になりながら携帯小説を読み、好きな時間に食事をし、寝たいだけ寝られる。一日をパジャマで過ごしたこの日を境に、私は不登校になった。

 学区外の、それも今まで何事もなく学校に通っていた真面目な同級生が来なくなったという事実に、クラスメイトたちは意外にも動揺したらしかった。一週間休んだところで、前の席の女の子から「数学は得意だから休んでる間の分を教えるよ。学校に来ない?」とメールが来た。この子のことは好きだったが、静かな子たちのグループに属する私とは正反対に一番目立つグループにいる女の子だったので、メールをくれたのは意外だった。知らないはずの私のメールアドレスをわざわざ誰かに聞いてまで気にかけてくれるこの子に会いたい気持ちが芽生えた。しかしそれでも宿題の恐怖の方が大きく、他の女の子たちからも私が気軽に登校できるように気遣う内容のメールが何件も届いたものの、登校はおろか学校に間に合うように朝起きることさえできなくなり、毎日のほとんどの時間を私は寝て過ごした。

 そのうち寝続けることにも飽きが来て、微妙に学力に対してのプライドも少し残っていた私は、冬服の解禁日に登校した。クラスメイトたちの第一声は「身長伸びた?」だった。成長期に十分すぎる睡眠をとったことで、たった三ヶ月の間に八センチ身長が伸びていたのだ。個人的には久しぶりの登校に対して驚いてほしかったものの、お姉さんへの憧れがある自分も健在だったため、より制服が似合う身長になっているという外からの評価はそれなりに嬉しいものだった。鏡のない部屋で過ごしていたので気がついていなかったが、百貨店の大催場の試着室で着た時は指先が隠れていた袖が自然と手首に位置していたし、夏服に切り替わる前は膝下まであったスカートの裾が膝上にあった。春からずっと、周りの目が私にとっての鏡だったのだ。その制服を着た私の全身を私が捉えられなくても、制服で街を歩いている時の周りの視線が中学時代に憧れた全身像を想像させたし、同じ電車に乗っている人たちの視線が「勉強を頑張る子がいない田舎から進学校に入った子」としての誇らしさを模っていた。

 それからまた少しずつ学校に行けるようになったかと思いきや、冬休み明けにはまた宿題が終わらず一月丸々不登校になり、二月には担任から「そろそろ理科総合と現代社会に出ないと進級できない」と脅され、このまま進級できないよりは宿題のことは水に流してでも授業に出させた方がいいと判断した各教科の先生たちに甘やかされ、宿題も予習も復習もなんとなくやり過ごしながら進級した。結局理科総合は数時間分の出席日数が足らず、春休み前に補講という名の「先生と共に宿題を終わらせる時間」が設けられたのだが、理科総合の先生に「この時間に宿題をやってもいいから絶対に出てくれ。二年生になったら宿題が終わってなくても学校には来るんだぞ」と言われたことだけはどうしても忘れられない。二年生の夏休み明けも、冬休み明けも、さらには三年生の夏休み明けも絶対に不登校になったからだ。大量の宿題を終わらせられずに着る制服は、普段よりずっと重たかった。


 三年間で盛夏服を着る最後の日、全校朝会があって全校生徒が体育館に並んだのを、なんとなく列には並びたくなくて具合が悪いと嘘をついた私は体育館の後ろから眺めていた。三百二十人が三学年分。セーラー服はその半分。そのうちのほとんどがもう夏服を着ていて、盛夏服は各クラスに十人いるかいないかに見受けられた。前の方から三年生、二年生、一年生と並ぶのがこの学校の決まりで、一番後ろから見てみるとなかなかに壮観な光景だった。手前に意識を戻すと、自分たちの後ろに立っている私を「あの三年生はなんでこんなところに立っているんだろう」と不思議そうに見てくる一年生と、「今日は学校に来たのか」と話しかけてくる先生たちが何人かいた。

 「そうですよ、今年は盛夏服から冬服にひとっ飛びじゃないんです。ちゃんと夏服を着るんです、最後だから」

 九月の終わり、例年より少し涼しい雨の日。私の盛夏服は学校中の誰のものよりも白かった。








たのしく生きます