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徒労的吐露

全てのゲートへ、三分前に滑り込む迷惑客だった。
京王線が二分遅れたからとか、当初乗る予定だった電車から一本遅らせたからとか、朝は予定の時間に起きられたのにとか、何が要因かはわからないけれどこんなに空港内を疾走したのは初めてだった。

仕事からは一時離脱したけれど、秋に買った身長を10センチ爆盛りするヒールで爆走できるようになっていた。


一時的な療養のために実家に帰る。
療養というと大袈裟だなぁ、と感じないこともないけれど、一人で生きなくていい日がしばらく続くことにかすかに安心している。

もう休職に入って3週間経つが、心の疲弊はあまり解消されていない。
解消しなければと思ってしまうし時折解消された気もするのだけれど、今朝見た夢があまりにもリアルな、仕事で事故が起こる夢で心の底から怖かった。
夢か現か迷いこそしないものの、寝起きから頭がフルスロットルで回って「あのメールを見せる」「このスプレッドシートの編集履歴を出して更新情報を確認する」「営業担当と先方からの当初の連絡内容を確認する」「部長に証拠と時系列を報告する」などの準備手順が自動的に組み立てられ、会社に置いてきたはずのパソコンを探しながら、ホーム画面から消したチャットアプリをアプリのライブラリから引っ張ってきて報告場所を探した。

休職している間の私の担当業務については多くない同僚たちが一生懸命に回してくれているのだとは思うが、どんなに「今は何も考えずに休むべきだ」と言われても、たまにこうやって罪悪感が実体化する。

つらい。

働いても休んでもつらいのなら休んでいた方がマシだと思えるようになったのは、正直なところ、一昨日あたりだ。
少しずつ、従来の自分の考え方を変えていってるが、ようやく仕事よりも休むことの方が上位に、いや...もう少し下...仕事と同等...くらいにはなったように思う。
常時そう思えているわけではないけれど、働いていた時の土日を「平日に仕事で150%稼働できるようにするための休み」と捉えていた私にしては、随分な進歩なのだ。

なぜ150%稼働なのかというと、そこまでしないと終わらない業務量を日々抱えているというのと、150%動いて初めて個人成績が120点くらいになるから。期末評価で120点をもらうことが、仕事の唯一の励みになっていた。
私は金の亡者なので120点でもらえるボーナスのために120点が欲しいのだと思っていたが、今回休んで「私は120点を取れたんだ」という事実が喜びと励みに繋がっていたことに気がついた。100点は取って当たり前の過去を生きてきたからだろう、仕方がない。


空港内を全力疾走しながら、飛行機に乗れなかったらどうするんだろう私は、と考えていた。
実家からの帰りの飛行機まで取っていることを悔やむだろうか。否、飛行機代往復数万円のことは意外と諦められる。
自分の家まで帰ることが面倒だろうか。否、これも仕方がないので素直に帰ると思う。

何が一番ショッキングだろうか。

各所への説明と家に帰って荷物を片すまでを一通り脳内でやってみて、「家族をがっかりさせてしまうことへの申し訳なさ」が一番苦しかった。
仕事と同じだ。

私は、誰かをがっかりさせることが大嫌いだ。でも誰もを満足させられる人間ではないことも頭ではわかっているし、そこまで期待されているとも思っていない。
ただ、ここ数年で私自身が(自分の負担を減らすために)がっかりしたり期待したりしないように意識しているからか、人にその感情を抱かせたかもしれないということ(想像でしかない)にとてつもないストレスを感じる。

想像でしかないのに、

(ちゃんと地道にプロジェクトは進んでいるのに)「進捗率をここまで上げられなくてがっかりしただろうな」
(ちゃんと日々人より多い業務量をこなしているのに)「まだ足りないと思われてるんだろうな」
(ちゃんと臨機応変にやるべきことをやれたのに)「もっと出来ただろうと部長は思ってるかもしれない」

という声が次から次に私の脳を埋め尽くし、気づけば全部の声を聞いて仕事をしていた。

今回の「帰れなくて家族をがっかりさせるのが嫌」という気持ちもそうだ。
いくつか予定していることや準備をしてもらっていることがある中で、その全てが私の「飛行機に間に合わなかった」というたった一つの不備でダメになるのが許せない。心が痛い。
楽しみにしてくれているだろうに、それらがドブに捨てられ、私が踏み躙るのが苦しい。

両親や部長はもしかしたらパッと心を切り替えるかもしれないのに、私の脳内の両親や部長はずっと悲しみ、ずっと私を恨むのだ。


飛行機の中で開いた読みかけの本に、こんな言葉があった。

その時わかったんだよ、人間の魂はこのフィラメントみたいなものだってことが。(中略)
電気さえ通れば誰でも光を放つし、それは光を失ったどんな電球より美しくてまぶしいんだ。それが愛なんだよ。人間は誰もが一つの極を持つ電線みたいなもんでさ。お互いに出会って、お互いの魂に明かりを灯すんだ。

このあと、相手を信じないことによって自ら明かりを灯すことを諦め、闇の中で埋まっている人間についての言葉が続く。

「ああ、私だ」と思った。

今の私が、いらないと口では言いながら喉から手が出るほど切望しているのが、愛だ。
幸い私は愛されることが多かったし、今も愛してくれる人たちがそれなりにいるが、私自身が私に対して愛することをやめたし、そんな私が誰かのことを愛せるわけがないと思っている。
実際、愛する「べき」だった人のことを諦めたし、そんな自分自身に失望した。

だから、私の中には、私にとって都合が悪い(ある意味都合の良い)想像上の他者が生まれているのだ。
ずっとそうやって自分をいじめているのだろう。


愛することは疲れる。疲れた。
無償の愛なんてほとんどないし、有償の愛は過度でも慎ましくても胡散臭さが纏わりつく。
愛なんてあるのかとさえ思う。
有償の愛は愛なのだろうか。
愛とはなんだろうか。
周りから見て「愛だ」と感じることなんて、本当は全部「義務」なんじゃないだろうか。

そんなふうに思う。
そして、義務ならやるべきことであり、それをやれない自分は蔑むべき対象に感じてしまう。
この気持ちの治し方が、なにひとつわからないのだ。

そして人の言葉を素直に受け取ればいいのに、この人は私に何を求めているのだろうと思う。
そんなことを考えなくてもいい、心地の良い友人たちもいるが、そんな人たちにも時々「何かを返さなければ」と思う。
大事で大好きでずっと私と仲良くしてほしいということがどうやったら伝わるだろうか。もう伝わっているかもしれないのに、足りないのかもしれないと思う。

両親に感謝していて大好きなのに、それが伝わっているかがわからなくて不安になる。
だからことあるごとにプレゼントを贈るし、実家に帰ったら極力家族と過ごす。地元の友人に会いに行ってその日家で晩ごはんを食べないことに罪悪感を抱く。

会社が私に下す評価と同じだけの働きができているのかがわからず不安になる。
「給料分の働きでいい」と言われるが、そもそもお給料の分の仕事ができていない気がしてしまう。一体どこまでできれば、大丈夫なのだろうか。
120点をくれた上司たちに、私は報いることができているのだろうか。

これら全部を私が誰かに渡せる愛だと、誤って解釈してしまっているのに、足りない気がして、全部が不安になる。
不安を書き出すとキリがない。


私の愛が間違えていることはわかっているのだ。
相手がそんな愛され方を望んでいないことも、むしろ愛を向けられることさえ求めていないことも、なんとなく、教科書に載っている言葉を読んだ感覚で頭には入っている。

自分で電線を切っているのに、もっとたくさんの電線を繋ぎたくなってしまう。
電線を通って入ってきている電気の量がわからなくなって、電線を通して出すべき電気の量も調節ができない。

愛されたい。
でも、愛されているはずなのだと思っているから、余計に混乱する。その望みは過剰なのだと。出さない分もらうことはできないのだと。
わかっているからこそ、もっと欲しいからもっと出さなければと思う。
もっと愛されたい。
もっと、私の望む形で愛されたい。


それなのに私は私の望む愛の形が、わからない。
わがままな自分を心の底から軽蔑する。



たのしく生きます