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どんな社会をつくりたいですか? (#73)

この問いは、先日、とある学びの場で頂いたものです。
「社会課題に取り組む方を支援したい」と常々言っている僕だが、いざこの問いに向き合ってみると、答えに詰まる。

しかし、ひょんなことから、なんとなく湧いてきたので、綴ってみたいと思います。


「自分の中に、まとまった答えがない」と気づいた

どんな社会かと問うてみると、確かに出てきます。
誰もが自分らしく暮らせる社会、エネルギーで困らない社会、気候変動に向かう社会・・・
しかし、どれも断片的。
そういう、部分の話じゃない。

試しにChat GPTに訊いてみた。
とても分かりやすく、漏れなく無駄なく網羅されている箇条書き。
でも、違う。
そんなパキッと割り切れる、隙間のない答弁じゃないんだ。

何なんだろう。


「センス・オブ・ワンダー」の一節、「きてよかったね」にハッとした

今年3月に出版された、森田真生さんの「センス・オブ・ワンダー」が、積読リストに入っていることを思い出し、何となく手に取った時、何かがつながりはじめました。

森田さんは、レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」で、この一節に注目していらっしゃいます。
そのシーンは、満月の夜にカーソンが甥のロジャーを連れて、海に来たときのこと。

ロジャーは、私の膝の上に乗って、月と、海と、大きな夜空をしばらく見つめたあとに、ふと、こうささやいたのです。
「きてよかったね」

センス・オブ・ワンダー p.17

日常から手の届くところにある自然に触れた時、ふと漏れ出た一言、「きてよかったね」

いつまでも、こういうふうに言える社会がいいな、って思ったのです。
自分もこう言っていたいし、自分の大事な人がこう言ってくれたら。

少しだけ構造化すると、「きてよかったね」と言えるのは、自身の内側も外側も満たされている状態だと思うんです。
自身の内側では、素直で、変な意固地を手放して、自分を受け容れ、自分を主導している。
自身の外側でいうと、人間関係や衣食住が満たされ、過剰な競い合いや奪い合いが無く、ともに分かち合っている。

こう考えると、社会課題への様々なアクションは、こういった部分から具体に派生されているようにも思えます。


小学1年生が言っていた「春の思い出」に心が震えた

そんなことを思っていると、僕自身の心が震えた体験につながったので、すこし綴ります。

先日、小学1年生が「春の思い出」を発表していました。
公園で遊んだこと、花のにおいを嗅いだこと、いろんな話をしていた中で、ふと、こんな表現をしていました。

風が、気持ちよかったです。

とある1年生の「春の思い出」から

この一言を聞いた時、僕の中で風が吹きました。

春の風、気持ちよかった風。
どんなだったんだろう?その時の天気は?時間は?誰といたの?
好奇心が湧いてきます。

もちろん、社会インパクトを定量評価することも大事ですが、
この一言のインパクトたるや。

「センス・オブ・ワンダー」の「きてよかったね」から、この時の体験がつながってゆきました。


特別なゴージャスな社会をつくりたいわけじゃない。
日常から手の届くところで、誰もが「きてよかったね」って思える社会になったらいい。
思い続けられなくてもいい。
そう思えて、その思いにつながれる社会になったらいい。


パキッとした答えではないですが、それでいい。それがいいのかもしれません。
答えは終わり、問いは始まり。
問いが残るくらいの答えが、ちょうどいいんじゃないかとも思うんです。

こんな社会をつくりたい。
そのために、自分の Being も Doing も、注いで生きたい。
奇しくもこれを綴っている今は、独立する前の晩。そんな気持ちです。


読んでくださってありがとうございました。
今日も佳い日で。


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