自己肯定は親の腹に置いてきた
2020年が始まり、年始の仕事や成人式とバタバタしていたらいつの間にか一月が終わってしまい、毎週日曜更新のはずが、日曜が終わってから考え始め気づいたらこんな時間になっていました。
どうも、ちろるです。皆さんは自分のことが好きですか?
自分の事が好きだ!と思える人、そこまで言わないけど自分の長所や得意なことを言える人、仕事や辛いことを終えた後に「私頑張った」と努力を認めてほめることができる人、本当に素晴らしいと思います。そうやって自分自身を肯定する力、自己肯定を私は親の腹に置いてきました。
そもそも自己肯定とは?と軽く調べてみたところ
自己肯定感とは自己価値に関する感覚であり、自分が自分についてどう考え、どう感じているかによって決まる感覚です。そのままの自分を認め受け入れ、自分を尊重し、自己価値を感じて自らの全存在を肯定する「自己肯定感」の感覚は、何ができるか、何を持っているか、人と比べて優れているかどうかで自分を評価するのではなく、そのままの自分を認める感覚であり、「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在」だと思える心の状態が土台となります。
そのままの自分を認め受け入れ、尊重し、自己価値を感じて自らの全存在を肯定する。とのことらしい。
これを見たとき「そんなこと出来たら今の120倍幸せに生きれてる」と頭を抱えました。世の中の人はこんなことが出来るのか、畜生、私はこんなこと出来ない。
どうしてこうなったのか、自分で考える自己肯定、自分を認める難しさを色々と考えてみました。
自分の主観が100%入っています。必ずそうであるとは限らないのでただ一人の考えだと思ってみていただけるとありがたいです。
自分に裏切られた
この世に生まれたときから自己肯定が低かったわけではなく、割と普通に健やかに育っていたんです。
そこから自分の中で何か変わったと思ったのは小学四年生。ちょうど今いる岡山に引っ越してきた時です。全く知らない場所、人、環境の中で昔いた場所との違いに気づきました。それは岡山にいる周りの人たちが、前いた地域の人と比べて自己主張の強い人間が多かったのです。
まぁ小学四年生にもなれば自分であれもしたい!これもしたい!と思ってもおかしくない年齢。とはいえ岡山にいるひとは自己主張が強いというか、自我が強く、「●●ちゃんがそれでいいなら」と譲ってた私の優しさはまんまと利用され、割と悲惨な小学校生活を送りました。
とはいえ当時は「悲惨だ!」とは思っておらず、「まぁ否定したら面倒くさいことになるし別にいいかな」という気持ちでいたし、楽しかった思い出もあったのでそこまで自覚症状がありませんでした。今思えば悲惨だったなぁ、と思いました。
そこから中学生になった私は「自我」を覚えました。
今までは何を言われても言う事を聞いていたのですが、小学生の時から今でも仲のいい友人が私の意見を聞いてくれることが多く、それによって「私も何か言ってもいいんだな」と思うようになりました。
そのまま成長していればよかったのですが、自我を持ったことで問題が生まれてしまいました。私の優しさに慣れた人間が、私が「NO!」と否定したことに不服に思ってしまったのです。
そこから喧嘩。絶縁。人間関係に安定を望んでいる私にとっては最悪のルートをたどってしまいました。いくら私の優しさを利用したとはいえ友人だった人。こんな事態になるなら自我なんて出さなきゃよかった。流されっぱなしのほうが安全じゃないか。そう思うようになりました。
そのトラウマが残ったまま高校へ進学。自我をあまり出すことなく平和に生きるつもりでしたが、そこでもわずかに出した自我のせいでまた友人関係が壊れてしまいました。もう呪いなのか。
自我を出したら人間関係が壊れる。「自分」というものが現れた瞬間今の心地よい環境が崩れる。
それを自覚した瞬間から、私は私のことが嫌いになりました。
認めることは大事ですか
自分の危機的状況に陥った私は、その瞬間、なぜそのような行動をとったかは分からないが、後から考えたらわかるような行動を取ることが多いせいで昔のことを思い出し、学生生活に比べ人間関係が落ち着いた社会人である今、考えることが多くなりました。
そこから分かったことのいくつかを紹介します。
・私ばかりが悪いわけではないのに、なぜそんなに自分ばかり責めてしまったのか?
→誰が何をしたとしてもその結果を選んだのは「当時の自分」であり、例え他人を責めたとしても結局はその選択をした自分が悪いと思っているから。それと人を責めることがあまり好きじゃないので自分を責めたほうが楽だと感じていた。
・友人に助けや相談を求めなかったのか?
→自分の問題を相手に押し付けることは迷惑行為と感じていたし、こんな気持ちを知られたくなかった。(こんな考えをしているのは自分だけだと思っていた)
・そもそもなんで自我を出した?
→自我を出しても許される瞬間があった。自分の意見を認めてもらえてた時もあった。そこから魔王に立ち向かう勇者のような、できないことでもやってやるという余計で迷惑極まりない感情のおかげで中途半端に出してしまっていた。自我を出す加減がわかっていなかったところもある。
圧倒的自己肯定の低さ。自分を認める気が毛頭ない意見しか浮かびませんでした。自己肯定が低いあまりに会社で褒められても言い訳を探してしまったり、お世辞と決めつけたり、疑心暗鬼になってしまい、そんな自分に失礼極まりないと絶望する日々。悪循環ループの完成です。
この状態じゃやばいと感じ「自己肯定 上げ方」と調べてサイトを貪るように見ましたが「あなたはやればできる人!全てはあなた次第」という言葉に対し「なんでここで見捨てるのさ!?一緒にいてよ!!!」と嘆いてしまい失敗に終わりました。もう二度と見ません。
自分を認めるって、なんなんでしょうか?
自分をこういう人間だと認めて、だから仕方ないと、これも運だった、と何かに擦り付けて正当化して生きていくのが普通なんでしょうか。そんなことをするほどの価値が「私」にあるのでしょうか?そこまでして認める、ということは大切なのでしょうか?
自己肯定が低い、自分を認められない好きになれない、これを認めることで免れるアクシデントがあるなら私はそっちに賭けたい。でもこれを世間はOKとは言わない。これで世界が回るならこれでいいじゃないか。
皆さんはどうおもいますか?
自己肯定で人によっては死ぬ
自己肯定で人は死ぬことがあります。例えば褒め言葉を貰って過剰な感情を抱き大胆なことをして失敗するこで死んだり、自己肯定が高いあまりに自信過剰になり人とのズレを感じて死んだり、自分を過信するあまり最終的に最悪な状況になってしまって死んだり、、、
人生の中で社会的に、精神的に死ぬ瞬間は大体自己肯定の高さと本来の力とのずれが生じて起きるものだと思っています。そのずれが大きければ大きいほどダメージが大きくなってしまう。自己肯定とは恐ろしいものです。
それでも自己肯定をして生きていける人がいます。なぜ私は死んであの人は生きるのか。それは自分の身の丈を正しく理解したうえで自己肯定をし、ずれが生じないようにしているからです。
すげぇー!!と思う方も多いでしょう。でもこれを大半の人が成し遂げています。何故成し遂げることが出来るのか。それは自己肯定に関してそこまで重要視していないからです。
私のような自己肯定の低い人間は自分の存在価値、自分が生きている意味を見出そうとしていますが、自己肯定のバランスが保たれている人は自己肯定が~なんて思うことはないと思います。思う必要がないんですから。成功や失敗をしても原因や感情を上手に取捨選択することができ、考えるほど自分が嫌いではないのです。
最後に
自己肯定、自分を認める難しさを延々と語りましたが、過去を掘り出し考えながら書いていたのでとても心抉るような気持ちでした。
こういうことは長い時間考えて生み出す者なので夜中1時から唸りながら書くものではないなと痛感しましたが、文章としてあらわすことも早々ないので面白いなと感じました。
本当はもっと明るい話題で続けていくつもりでしたが私そんな明るい性格でもないし今のうちに本性晒しておけば後の自分が生きやすいかなと考えたところです。
まだまだ自己肯定については考えていくべき課題だと思っているのでまたここで書くことがあると思いますし、その時にはまた違う意見になっているということは大いにあり得ると思います。
その時にまたここで残せていけたらなぁ、と思っています。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
長文&乱文、そして普段の私を知っている方からしたら心配になりそうな内容ですがいつもこういうことを思っているわけではないので安心してください。
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それでは来週の日曜日(2月9日)にお会いしましょう。