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インタビュー 【ラッピーの観光センター】 90歳の元競輪選手が営む板橋の自転車店 ~竹内自転車店・竹内秀介氏~

ラッピーの観光センター企画で、毎回、不動通り商店街の店主をインタビューしこのブログにアーカイブします!

まず1回目は、この商店街の最長老「竹内自転車店」の竹内秀介(ひですけ)さんにインタビューをしました!

商店街の自転車屋に生まれて
  
—— いつお生まれになったんですか?

竹内 昭和九(一九三四)年の三月一二日。ちょうど九〇歳。九〇になっちゃった。嫌になっちゃうね。

—— いやぁ、全然見えないです。生まれた場所もここ、板橋でしょうか?

竹内 うん、ここ。自分の家で。

—— お産婆さんが来て?
 
竹内 それはわからないなあ(笑)。

—— 赤ちゃんだからわからないですよね(笑)。昔はどんな感じなのかなと思って。

竹内 学校はだから、第一小学校へ行って。

—— ご兄弟はいらっしゃるんですか?

竹内 一人っ子。

—— あ、そうなんですね。

竹内 ちょうどね終戦のときがね、えーっとね、小学校の五年生。東京の空襲があったじゃない。その時は本当にこの通り(不動通り商店街)ね、なんていうの、人がぞろぞろぞろぞろ向こうから。

—— 巣鴨の方から?

竹内 田舎の方へ行くっていうから。すごい人だった。ぞろぞろぞろ。

—— ここ(不動通り商店街)の道が埋まるぐらい?

竹内 うん、まあそこまでは行かないけども結構すごい人で。私らももうね、上板(上板橋)に知り合いがいるんで、うちの親が「上板なら大丈夫だよ」って。やっぱり田舎だったんだね。ここよりもっと田舎だった。それで上板に行こうと思って途中まで行ったら目の前に焼夷弾が落っこっちゃって……。すごい、落ちると周りがばあっと炭になっちゃって。それで戻ってきてあそこ氷川神社の近くに川が流れてて。今は入れないけど昔は更地だったから、さらっと入れたから、あそこでちょっと休んでいようって、行くのやめて。それでおさまって回避。

—— それが小学五年生の時。

竹内 あと、そこの信号(鳥新の交差点のところ)あるでしょ、あそこから向こう(仲宿商店街)がけっこう燃えたの。

—— えっ、そうなんですか!

竹内 うん。だからあっちの方が新しい人が多くて。だから発展してるんじゃないかな。こっちは古い人が多い。焼けなかったから。

—— なるほど、そういう理由で。確かに建物が、向こう側の方が近代的建物が多いです。

竹内 うん。あそこの交差点(鳥新のところ)、あそこは昔、ロータリーだったんですけど、その向こう側が火事になっちゃって。

—— ロータリーだったんですね。仲宿の氷川神社のあたりまでが燃えたと。戦時中ですし、竹内さんの小学校の同級生とかで当時、亡くなった人とかいるんですか?

竹内 戦争ではあんまり。当時はほら、うちは集団疎開って、水上(群馬県)の方に行ってね。

—— 結構もう散りバラバラで、それぞれの田舎に。

竹内 板橋区はね、老神(おいがみ)温泉の方へ集団疎開に行ったの。うちは集団疎開は行かなかったから、だから残ってたの。

—— 竹内さんのお父さんは戦争に行かれたんですか?

竹内 ここで店やってた、自転車屋。大東亜戦争(一九四一〜一九四五)は行ってない。当時だからみんな、軍隊は引っ張られる一回はね。だから一回は徴兵で呼ばれたけど、大東亜戦争は行ってない。

—— そうなんですね。じゃあ竹内さんは一人っ子で、家業を継いでくれ、という感じだったんでしょうか?

竹内 うん、まあね。

—— でも、それでも、競輪選手の方に?

竹内 いやうちの父親もね、ほらここにある、これうちの親のメダルなんですけど、うちの親も自転車の競争やってたの。昔のアマチュアの競争。プロの競輪ってのは戦後だから、戦前はねアマチュアなんですよ。

—— そうだったんですか! それも継いでるわけですね。(※飾ってあるお父様のメダルを見せていただく)これがお父様の! お父様のお名前は?

竹内 清吉(せいきち)。うちの親も結構、強かったらしい。

—— 親子二代に渡って!

竹内 まずここにはないと思う。これは本当にね。

—— 博物館行きですね!

竹内 自転車競走って、競輪じゃなくて自転車競走。要するにこの当時は、地廻りというか、今で言う興行師が仕切ってやったの。

—— 興行だったんですね。(お父様のメダルには)主催は毎日と、日日新聞と書いてありますね。

竹内 そのメダル、一つしかないんだよ。旗もあったんだよ、優勝旗。それはなんかどっかに捨てちゃった。

—— どこかにはあるかもしれないですね。

竹内 それ本当にね、まず、ないと思う。

—— お父さんは何歳頃まで選手をされていたんですか?

竹内 それはわかんない。私が生まれた頃はやってなかったから。

—— どの辺でされていたんでしょうか。

竹内 この下に、三五之原(さんごのはら)って、私は知らないんだけど、三五野原ってあったんだけどね、その当時そこで自転車の競争もできたらしいんですよ。ちょうどそれ行って、あそこの大きいビルあるでしょ。あれの反対側これ左降りてったところ、あそこの左側ね。私はトンボ捕りか何かして遊んでいたから。まあ当時はその辺りはみんな段々畑になっていましたけど、その辺りで昔はレースができたらしいんですよ。

—— 昔はこの街道の周辺は建物がなくて段々畑だったんですね。

「中山道板橋宿跡絵図」(画:飛田啓之助/昭和40年)より

竹内 うちの親の話だからね、わかんないけど。あと池之端の方でも競争やったっていうんだ。

—— 上野の方ですね。あの辺は大きな公園もありますし。

竹内 あっちはね広いけれど。こっちはもう建物が建ってよくわからないから。でもあの辺でなんかやったらしいんだよね。

—— 当時のそういう情報って、ほとんど知られていないですよね。

竹内 私は親から聞いてるだけで、全然わかんないけど。当時私はトンボ追っかけしたぐらいじゃない。

—— トンボ捕り。子供の頃この辺で他にどんな遊びされてましたか?

竹内 遊ぶったって、ねえ。まだ自転車やってないしね。でももう戦後になってから少し野球をやりだしたね。

—— でも子供の頃も、子供も自転車乗ってたんですか? 高価なものだったですよね、昔って。

竹内 自転車に乗ったっていう、あんまり記憶ないんだよな。

—— 昔は大人用だと子供は足が届かないでしょうしね。

竹内さんが子どもの頃は軍国少年の時代じゃないですか。だから戦後はガラッと価値観が変わったと思うんですよね。あれ、教科書に墨とか塗りましたか?

竹内 いや、ないよそんなのは。

—— エッ、なんかそういうのドラマとか映画では見かけますが、ないんですか。

竹内 そんなんなかったよ。そういうの、学校ではなかったね。

—— やはりちゃんと聞かないと、本当のことって、ちょっとしたことでねじ曲げられちゃうんじゃないかと思いました。

竹内 なかったと思う。

—— なかったと。だけど、一気にアメリカが入ってくるじゃないですか。

竹内 ここら辺にも沢山いたもんね。

—— だってGHQ入ってきて、一九五二年までいるじゃないですか。要は日本がアメリカじゃないですか。その頃ってどうでした? 竹内さんはちょうど多感な高校生くらいですよね。

竹内 当時ね、アメリカ人が来て、ガムだとかチョコレート、あれがみんな子供なんか欲しがって。

—— 「ギブミーチョコレート」って、やりました?

竹内 うん。それは本当。そこの近所に憲兵隊があったんですよ。ここをまっすぐ行くと広い通りあるでしょ。広い通り行って、ずっと行ってね、行って右側なんだけどちょっと、「ライフ」があるでしょ。それをちょっと右曲がったあたりの所に憲兵隊があって、そこにアメリカ人がみんな入って来たから、アメリカ人が結構多かった。

—— 地主さんの大きな家などを、そういうアメリカ兵が間借りしていたと聞いたことがあるんですけど、どうでしたか?

竹内 ここら辺には宿舎みたいなものがあったからちょっとわからないなあ。

—— ライフの方だと仲宿が焼けちゃったじゃないですか。

竹内 その憲兵隊のところは焼けなかったんだよね。

—— なるほど。あと、この辺りって闇市はありましたか?

竹内 闇市? 闇市というか、ここはもう昔から市があったから。一日と十五日は必ずやってたから。初めから街はここはあったんですよ。巣鴨よりも賑やかだったの、ここは。

—— こっちの方が栄えていたんですね。

竹内 うん昔はね。ここに夜店も出てね。まあ、当時巣鴨というより、結構ここにぞろぞろきたから。

—— 大体昭和何年ぐらいまであったんですか?

竹内 それがねわかんないんだよ、こないだ嫁さんに聞いたら、私が来た頃はなかったって言うんだよな、もうさ五十か四十近いんだけど、なかったっていうから、うん。だから、四、五十年前になくなったんじゃないかな。観明寺さんに聞くとわかる。あのお寺さん。

—— 市は観明寺さんが中心でされていたのでしょうか?

竹内 そう。露天商の人が店を出して、この通りでね。

—— そこを中心に大変な盛り上がりだったと。

竹内 うん。あそこ(観明寺)からロータリー(鳥新)のところまで。

—— 鳥新さんは創業明治二八(一八九五)年と看板に書いてありますよね。あそこも古いですね。

竹内 鳥新さんも古いけど、あそこのお肉屋さん。

—— 上原さん! 百年って言われていたんで、もっと鳥新さんの方が古いのかな。明治だから一二〇年前ぐらいでしょうか。

十五歳で競輪選手目指す

——竹内さんの中高生、中学校や高校生ぐらいの十五〜二〇歳ぐらいまでって、どんな感じだったんですか?

竹内 私はね選手になったのが、当時は尋常小学校を卒業すると二年制の高等小学校っていうのと、五年制の普通の中学校とあって、私はその中学に入ったの。今、豊島学園って言うんだけど、昔は豊島実業って言って、我々の時は豊島商業って言ったんです。その後、豊島実業(高等学校)になって今は豊島学院(高等学校)かな。で、そこに四年生まで行ったんです。四年のとき、競輪選手になりたくて、試験を受けたら受かっちゃったから辞めちゃったの。あと一年だからと思って悩んだんだけど、そしたら学校が六年制に制度が変わるっていうんで、そうなるとあと二年も行かなきゃいけない。あと二年。そりゃきついわと。それで辞めちゃった。

—— では何歳の時に選手になったんですか?

竹内 十五歳。

—— お若い! その当時から競輪の選手になる試験があったんですね。

竹内 学科試験と実技がありました。

—— 今は一年間、学校に通わないとプロになれないみたいですね。

竹内 そう。我々の時はそれはなかったね。

—— やっぱりなかったんですね。競輪が始まったばかりですもんね。

竹内 そのまんますぐプロ選手だから。でもうちの父親も戦前は選手だったから、そういう人は選手になったの。父親は選手登録番号が1037番。

—— 竹内さんは何番ですか?

竹内 1731番。

—— ではおおよそお父様の登録番号から700名あとが竹内さんなんですね。

竹内 そう。当時、プロ競輪が始まったころは選手がいないから、昔やってた人でやりたい人が出てやってたみたい。だからうちの親とも一緒に行ったことあるのよ(笑)。

—— えー!そうなんですか!いいですね。

竹内 でも(うちの親は)弱かったけど(笑)。で、当時それでも選手が足りないから試験を設けて募集したの。

—— なるほど。一から試験を受けて受かった選手だけではなく、戦前からの人を集めてレースをしていたんですね。

竹内 そう。だから父親は試験はなかった世代。でも試験に落っこちた人もいるんだよ。私の知ってる人で、輪タクって、自転車のうしろに人を乗せるところがあって、昔はそれが流行ったの。その自転車タクシーの運転手。輪タクで足を鍛えているからって試験を受けたら、学科試験で落っこちたって。
—— では竹内さんは最年少で学科も受かって優秀だったんですね! 一九四八年、東京のあの後楽園で始まったんですよね。竹内さんはできたての時ですね。

竹内 そう、ぼくが第一期生。今の野球場(東京ドーム球場)の所で自転車競争やったんだよ、昔。最初、国体か何かがあってできたんですよ。

—— 東京での国体は一九四九年みたいです。竹内さんが十五歳の時。

竹内 そこへ練習行って。だから私はもうやってる頃はもうできてたんですよ。

—— だけど、そもそも競輪選手の募集は何で知ったんですか? やっぱりあのお父さんが選手だったからとか?

竹内 そういうのもあるんだと思います。ほら、関係の人もうちに来てたから。昔のアマチュアの選手、そういう人が来てたから。

—— では物心ついてから、なろうと思ったんでしょうか?

竹内 いやそれは思わなかったですね。戦争中はそれどころじゃないから。戦後すぐだからね。

—— そうでした、戦時中でした。だからこそ、ちょっと新しい職業というか、選手って一つの花形だし、やってみたいな! っていう感じで、若い十五歳の竹内さんが自分で決めた進路だったんですね。

竹内 父親の頃は自転車競走はアマチュアしかなかったから。それからプロの競技場になって。で、ここから毎日、後楽園まで練習に行ってました。その前は大宮まで。

—— 大宮まで、自転車で行くんですか?

竹内 そう自転車で。だってその自転車で向こうで練習するんだもん。

—— 通いで?

竹内 毎日練習行くの。

—— 宿舎はなかったんですか?

竹内 ここから練習行って、向こうで練習して、帰って。大宮はあの野球場のこっち側が競輪場なのね。くっついてる、大宮は。

(当時の写真アルバムを見せながら)あ、これがね、先生なんですよ。この人が今豊島学園かな、あそこの理事長になったの。この人に生徒の頃は教えてもらって。

—— これは何かの集まりですか?

竹内 珠算部の連中が集まってね。

—— 学生当時は珠算部。そろばんですね!あとこちらの写真もかっこいいですね。なんか、ものすごく写真がいいですね。これはどういうメンバーですか?

竹内 東京の選手たちと。

—— 慰安旅行みたいな感じですか?

竹内 慰安旅行じゃない。競輪場。当時は札幌にも競輪場があったの。今はなくなって。

—— 全国の競輪場に、競馬の選手みたいにレースごとに色々飛び回っていたんですね。

竹内 多いからね競輪は。あっちこっち。だからね、年中。だから食べるものは何でも食べる。どこいって何を出されるかわかんないから。

—— それは楽しみでもありますよね。

竹内 楽しみじゃないね(笑)。

—— 好き嫌いがあるんですかね(笑)。あと、これはどこですか?

竹内 北海道かな。一番面白かったのはね、よく練乳ってミルクあるでしょ。あれがね、まだ私がもうそれこそ十五で入ったから十六歳くらいの頃じゃないのかな。北海道の札幌の競輪行ったんですよ。するとみんな選手ずらっと大きい広間にいて、誰が言い出したかわかんないけど、あんまり甘いものがなかった頃だから、あれを誰かが買ってきてお湯を入れて、それを「美味い美味い」ってみんなで飲んだんですよ。練乳って、あれ甘いんですよ。未だに忘れない。

—— 練乳って、当時は北海道にしかなかったんでしょうか?

竹内 いや、北海道しかなかったわけじゃないけど、誰かが買ってきたからそれをやったんじゃないかな。お湯入れてね、みんなで飲んでさ、美味いなあコレ、って。今じゃ考えらんない(笑)。

—— 確かに。でもなんか、もうやみつきになったんですね(笑)。

竹内 いやぁ、いろいろ面白かったね。北海道から九州まで、色々行ったけど。

—— すごい豊かな時代ですね。本格的に初めてのレースに出たのは何歳ですか?

竹内 十六歳で後楽園でデビューです。

—— その当時、竹内さんが一番若いくらいですか?

竹内 そうそう一番若い。メンバー表がどっかにあるんだけどね。当時のメンバーっていうか、当時の選手の名簿っていうの、どこかに。

—— わざわざ中学校を中退してまで選手になるっていう人って、いないと思うんですけど。

竹内 後楽園に練習に行くでしょ。そうするとね、友達がそばの大塚にいるんですよ。私立だから。あちこちから来てるから。で、自転車乗ってるの見つかっちゃってさ。冷やかされちゃって、バレちゃってさ。

—— へえ! 選手の平均年齢ってだいたい何歳くらいだったんですか?

竹内 そうですね。もっと上ですね。二十五、六ぐらいのが多かったんじゃないかな。戦争から帰ってきたとかね。

—— 竹内さんとは十も離れてるじゃないですか。そうするとめちゃくちゃかわいがられたり?

竹内 いや、かわいがられないよ、勝負だから(笑)。

—— あ、そうですよね(笑)。もちろんレースのときは勝負、それは手加減はないと思うんですけど。旅とかではどうでしたか?

竹内 いや別になかったですよ。

—— そうですか。でも竹内さんの周りは大人の世界ですよね。

竹内 そう大人の世界。そこに飛び込んじゃってね。

—— だから一気に色々成長しますね。

竹内 そうね。

—— じゃあ竹内さんは、旅の間に奥さんと知り合ったんですか?

竹内 それはね、もっとずーっと後。

—— ずーっと後なんですね。

竹内 そう。京王閣でね。京王閣、今の競輪場。あの調布の一大レジャー施設。あの当時ね、選手の宿舎があったんですよ。だから後楽園から京王閣まで選手の送迎バスが出ていたんだけど、ある日、バスガイドさんがちょうど休みの日だったんだけど、「今日、しゃべんなくていいからちょっと手伝って」って運転手に頼まれて、たまたま乗ってたんだね。で、そのバスガイドがうちの嫁さん。そこで知り合ったの。

—— えっ、奥様はバスガイドさんなんですね! そのたった一回のタイミングで知り合ったとは、ドラマチックですね。

竹内 縁ってそんなもんだね。

—— 何歳くらいの時ですか?

竹内 二十六、七歳くらいかな。

—— 今は競輪選手は携帯電話、スマートフォン、タブレット端末、パソコンなどの通信機器は競輪場の敷地内に持ち込む事は禁止されているそうですね。

竹内 当時はいい加減だった。昔はルーズだった。それからしばらくして八百長と大変なことが続いたからね……。

—— 全然今と違うんですね。竹内さん自身は(競輪に)賭けていたことはありますか?

竹内 一回もないです。私の友達も全然行かないです。

—— えー! 意外です。それはなぜですか?

竹内 やっぱ行くのが嫌なんじゃない?(笑)。見るのが。

—— 散々見てこられたから逆にもう見たくないと。

竹内 だから表から一回も入ったことがないんです。我々は裏から入るから。仲間の中ではボートレースに行く奴はいたけど、誰も競輪は行かないね。やっぱり嫌なんじゃないかな。一回行ってみたいけど、なかなか。買っても当たりゃしないけどね。

—— 直接競輪場には行かないけど、予想はされたりしますか?

竹内 しない。全然競争の形態が変わったから。昔は最後の一周半くらいでバーっと先に出る人がいて、その後ろに二、三番手が付くんだけど、今は違うから。今のは全然離れたところから前へ行っちゃったりするから。あと一周半くらいってところで場所を取るのが大変だった時代だったんで。

—— 当時も全国に競輪場があったそうですが、レースの形態は違いましたか?

竹内 昔はどこも一緒でした。

—— お怪我がつきものでしょうが、竹内さんは?

竹内 鎖骨左右三回ずつ、あと腕を骨折しましたね。全部で七本。傷は年中だから傷だらけでした。

—— そんな大変な中、初めて1位を獲られますが、何歳のときですか?

竹内 予選で1着はまあ、楽なんだけど、優勝をするのは勝ち上がりだから。

—— トロフィーを見せてもらいましたが、あれはいつのですか?

竹内 結婚する前の、二十七、八歳頃ですね。

—— 選手になられてから十年後くらいですよね、1位になられたのは。やっと獲れた! って感じでしたか?

竹内 いや、なんてことはないね。

—— エッ(笑)。

竹内 別に「やったあ!」ってくらいだね(笑)。

—— じゃあ1位を獲ったし、祝杯をあげには行きましたか?

竹内 いや、そんな派手にはないですが、学校の先生と珠算部の同級生だけ呼んで、宴会はしました。

—— 学校を卒業をされてから十何年経っても、学校の先生や珠算部の方たちとのお付き合いが深かったんですね。

竹内 今その学校の先生は学園の理事長になっているもんね。今でもやっているはずですけどね。

—— え、ちょっとまってください。その先生って竹内さんとおいくつ離れていらっしゃるんでしょうか。

竹内 六つか七つかな。

—— 先生もご長寿ですね! 

竹内 去年あたりも健康器具のことで電話がありました。あの自転車みたいにペダルを漕ぐやつ。あれを組合に聞いたら、「それは健康器具だから」って言われて(笑)。

—— 先生は、とにかくペダルを漕ぐとか自転車みたいなものは竹内さんに聞けばいいと思われてるんですね(笑)。それにしても同級生の方はほとんどお亡くなりになられたのに、先生はお元気なんで、びっくりしました。

家業の自転車屋を継ぐ

—— あと、この不動通り商店街界隈にも同世代の方はたくさんおられたと思いますが。

竹内 そうですね。この商店街はとにかくたくさんあったけど、今はもう戦前からやってるっていうのは五、六軒しかないんじゃないかな。

—— それこそこの通りにはシンボル的な銭湯「花の湯」がど真ん中にありましたよね。

竹内 あそこは古かったんだよ。そこのおかみさんは私よりちょっと上くらいかな。

—— 昔は商店をやっている家っていうのは、昔ですからほぼどの家もお風呂がないって聞いたことがありますが。

竹内 そう、当時はみんななかったんだよ。だからみんなお風呂屋さんだよ。

—— じゃあ、このあたりの人たち、みんな家族みたいなもんですね。

竹内 そうだったね。

—— 花の湯さん以外にもお風呂屋さんはありましたか。

竹内 今でもそこの信号を降りた右っ側に(さくら湯)あります。あとそこの交番の斜向かいに(ゆーらんど)。あとは焼けちゃったけど仲宿にありました。あともう一軒くらいあったけど、もうやめちゃって。

—— 竹内さんは練習から帰ってきてからひとっ風呂行く、って感じでしたか。

竹内 練習って言ったって、昼間やってるから。だいたい午前中に行って走って、あとは終わり。

—— えっ、案外早く終わるんですね(笑)。終わって帰ってきたら、遊びに行かず、家業の手伝いをしていたという感じでしょうか。

竹内 だいたいそうですね。結婚してからはずーっと。

—— 竹内さんのお父さんはいつまでご健在だったんですか? 

竹内 平成五(一九九三)年で、お袋が平成六(一九九四)年かな。親父もお袋も九一歳でした。

—— 竹内さんが丈夫なのは親御さんゆずりでもあるんですね。

竹内 ずいぶん長く生きていたんだね。でも明治、大正時代の先祖は案外若くで亡くなっているんです。二十代とか、八つとか。

—— エッ、そんな子供まで……。でもむかしは流行り病の結核などもありましたし、寿命も短かったと聞きます。だから還暦のお祝いは特別な印象があります。

竹内 昔は六〇まで生きたら大したもんだったんだろうけど。子供も大勢生まれた時代だけど、早くで亡くなる人も多かったんですね。食べるものなのか、薬がいいのか、よくわからないけど、両親は長生きだね。

—— 竹内家は代々、この商店街ですかね?

竹内 そう。

—— 自転車が一般に入ってきたのは明治くらいからだと思いますが、ご先祖の代から始められたんですか?

竹内 親父が自転車競走をやったりしていたから、それで自転車屋になったの。

—— ではお爺さんの代は何をされていたんでしょうか。

竹内 酒屋だったらしいの。

—— でも商売をされている家だったんですね。
 竹内さん、案外真面目だったんですね(笑)。お仕事がお好きなんですか?

竹内 食べてくためにしょうがないからやってるだけだよ(笑)。国民年金制度ができた当時、我々みたいな仕事の人はほとんど入っていないんじゃないかな。

—— 開始は昭和三六(一九六一)年ですね。

竹内 我々の競輪の組織にそもそも年金制度がなかったから。今はどうか知らないけど。まあ、国民年金つったって、そんなのいくらになるんだよっていう感じでしたしね。だからみんな入っていなかったと思うんです。

—— そうなると働かなきゃですね。

竹内 そう、年金がないから働いてます(笑)。

—— もし年金が入っていたとしても、きっと竹内さんは丈夫だから働いていそうですね!
 ところで選手を引退されたのは何歳の時ですか?
 
  竹内 四十五、六だと思う。

—— だいたい昭和五十四(一九七九)年か五十五年(一九八〇)年ですね。でも選手時代から家業を手伝っていらっしゃったから自然な流れですかね。

竹内 そうですね。朝、練習に行って昼帰ってきてから仕事して。あれで間に合っちゃったんですね。今の選手は朝練習をしたら昼からウエイト・トレーニングになるんでしょうが、当時はそういうのはなかったんで。

—— むしろ、自転車屋さんの仕事をしていたら勝手にウエイト・トレーニングになっていたと(笑)。

竹内 そうそう(笑)。

—— 働いて、風呂屋で汗流して、そして一杯やりに行ったり?

竹内 普段は行かなかったですね。競争が終わったら一日でこれだけ遊べるお金があったら全部使って、あとは練習したほうがいいよって。

—— 宵越しの金は持たないと(笑)。

竹内 それをタラタラしていたら、このへんでも二人、八百長でクビになった人がいるんだけど。ほら、ダラダラしていたら付け込まれて、当時流行っていた八百長で捕まるんです。八百長やる人は強い選手でも全部捕まったんですよ。

—— 今の一番の楽しみって、なんでしょうか。

竹内 もう九〇になると、ないよね(笑)。

—— えっ、そんな笑顔で言われても(笑)。でもいつも笑顔でニコニコされているから、お仕事がお好きで楽しいのかなって思っています。

竹内 まあ、でも表にもなかなか出ていかないしさ。

—— 行くのは病院だけ…。

竹内 そう。たまに倅たちが行こうっていうから出ることもあるけど。あとたまに、うちの娘の旦那が豊洲の市場で仲買やってて、娘も一緒に商売やっているんで、たまーに、三ヶ月に一回くらい行くのかな。

—— それはいいですね! お寿司とか豊洲で食べに行くんですか?

竹内 仲買だから、その中は食べるところがないんです。でもその横にできたとこ、あれはすごいね。

—— そうですよね。

竹内 きれいだよ。でもまだ一回も行ったことないけど。

—— あれっ(笑)。行ってはないんですね。じゃあ次回。

竹内 でもこれが高いらしいんだ。うちの娘とかも行かないって。すぐ隣の豊洲の市場は一般の人は入れないから。

—— では市場を見に行って。

竹内 安いんだよ。築地より安いんだから。豊洲は卸で築地は小売だから。で、ちょっと豊洲を見てから築地に行って、飲んで食べて。

—— 楽しみ、あるじゃないですか(笑)。娘さんとも一緒に御飯食べて。

竹内 それが楽しみ(笑)。年に四回くらいかな。

—— 少し話は戻りますが、この商店街は人の出入りが多くて個人商店もいっぱいあったんですよね。

竹内 ほとんど通りは全部お店がずらっと並んでいましたからね。今は薬屋さんと病院と…。

—— たしかに、あと歯医者とか、多いですね。

竹内 しょうがない。今は商売の時代じゃないもんね。

—— 形態が変わりましたね。

竹内 全然違う。仕入れ値段が違ってくるし。やっぱりどうしても個人商店だと売るほうが高くなるから。大きくて安いお店なんていっぱいあるしさ。だから個人商店っていうのはこれから大変だと思う。

—— この不動通り商店街、お店は当時とはだいぶ減りましたけど、それでもまだまだありますね。

竹内 うん、頑張ってるよね。

—— 今後、どうなってほしいですか?

竹内 このね、道路。きれいになったでしょ。これ直してからこの商店街は駄目になっちゃったんです。

—— エーッ、意外です。

竹内 直すのにすごい時間がかかったの。それで直すとき一緒に電信柱を地下に埋めたでしょ。あれが結局まずかったんだね。あれからお客さんがワーッと目に見えて減ってんの。

—— お客さんが目に見えて減ったと。

竹内 あとあっちの仲宿の方って、ガチャガチャしてるでしょ。小さい商店って、あれじゃなきゃいけないんですよ。こっちはすっきりしすぎちゃって。あっちは手前になにか出したりしてごちゃごちゃしてるでしょ。

—— 歩きづらいですが。

竹内 そう。それでないと街の商店って駄目だと思うんですよ。

—— その視点は商売をされている人ならではの発想といいますか、実感ですね。

竹内 大きい商店の場合はそれでいいと思うんです。道幅が狭いとこっち見て、あっち見てができるけど、広いとしにくいでしょ。

—— なるほど、その距離感が大切なんですね。

竹内 店の前に何かおくと警察がうるさいんだけどね(笑)。うちの前は靴屋さんだったんだけど、その人が商店街の会長さん時代に道路工事を決めちゃったんだけど、サラリーマンあがりだからわかってないんだよね。感覚っていうのかな。綺麗にすりゃいいっていうんで、先に綺麗にした商店街を見学しに行ったりしてたみたいで、そりゃいいところもあるんだろうけど、こんなちっぽけなところじゃ駄目なんだよね。それが原因だと思うんです。

—— なるほど、と思いました。たしかに、巣鴨の商店街もガチャガチャしているイメージです。綺麗すぎると通り過ぎちゃいますね。

竹内 そう。

—— では最後に、竹内さんにとって自転車とは。

竹内 なんだろう……。ひとつは遊び道具であり、ひとつは日常に使う道具であり、一概に言えないんじゃないかなあ。便利なものだね。

—— 確かに、便利です。あと余談ですが(笑)、竹内さんが自転車で一番遠く行った場所ってどこですか?

竹内 鳩ノ巣って知ってる? 鳩ノ巣渓谷。あと小河内ダム。青梅の方の。あそこまで。

—— ここから七〇キロのところですね! 往復一日でですか?

竹内 もちろん。練習だからね。

—— あっ、練習だったんですね! 

竹内 でも小河内はあまり高低差がキツくないから。あと八王子のほうの大垂水峠とか相模湖のほうとか。川越なんて年中行ってました。お土産に団子買って(笑)。

—— ご家族にお土産を。それは喜ばれそうですね! それではこのへんで。どうも、ありがとうございました。

写真;紺野 正瑛(LLC uto)
文責;田中ひろこ(H Book Works),笹井響己(響紫)



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