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【真面目に】1930年代後半~世界大戦下でジャズメンは何を創造したのか?


「評論家」「音楽プロデューサー」とされる白人 ジョン・ハモンド

「音楽の中には肌の色による線引きなど聴こえない…私が考えられる範囲では、ジャズにおけるニグロの優越性を認識することこそ、社会的な異議申し立ての最も効果的で、建設的な形である」(引用:Wikipedia)

ベニー・グッドマンがバンドを組織する際 黒人ジャズメン(テディ・ウィルソン ライオネル・ハンプトン チャーリー・クリスチャン)を雇わせたのも ジョン・ハモンドの強い勧めによるものです



カーネギー・ホールでの歴史的なコンサート


1938年1月16日 ベニー・グッドマンは ニューヨークのカーネギー・ホールで 白人と黒人の混合編成バンドによる 初のジャズ・コンサートを敢行しました

このコンサートの中盤では カウント・ベイシー楽団とのジャム・セッションも行われます


1938年12月23日 ジョン・ハモンドの企画で「フロム・スピリチュアル・トゥ・スウィング」と称されたコンサートが カーネギー・ホールで開催されました

<出演者>
【ゴスペル】
:ミッシェル・クリスチャン・シンガーズ
【ブルース】:ビック・ビル・ブルーンジー ソニー・テリー
【ニューオリンズ・ジャズ】:シドニー・ベシェ
【カンザス・シティ・ジャズ】:カウント・ベイシー

ジョン・ハモンドの元々の目的は 【伝説のブルーズマン】ロバート・ジョンスンを探し出し 出演させることだったようです(ロバート・ジョンスンは既に死亡していた)

そこで 黒人ルーツ・ミュージックのミュージシャンを出演させました

そこで ブギ・ウギ をニューヨークの聴衆が生で聴くのはこれが初めて

ミード・ルクス・ルイス アルバート・アモンズ ピート・ジョンソン 3人のブギ・ウギ・ピアニストの共演は最高の盛り上がりとなりました


このコンサートの観客で感銘受けた ユダヤ系ドイツ人

その人は ブルーノート・レコード創業者アルフレッド・ライオン 


1939年1月6日(コンサートから2週間後) 

アルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスの2人のピアニストでブルーノート・レコードの最初の録音が行われます



『カフェ・ソサエティ』から宣戦布告


1938年にニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジにオープンしたナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』

オーナーのバーニー・ジョセフソンは ユダヤ系ラトヴィア移民二世

店のポリシーは「人種混合」 
若者も後期高齢者もいかなる肌色のお客様も平等なサービスを謳う一流クラブ(当時は異例中の異例)

このクラブの専属歌手は ビリー・ホリデイ

このクラブで名曲『奇妙な果実(Strange Fruit)』は初めて歌われました

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

南部の木は 奇妙な実を付ける
葉は血を流れ 根には血が滴る
黒い体は南部の風に揺れる
奇妙な果実がポプラの木々に垂れている


『奇妙な果実』は コロンビア・レコードが録音を拒否したので ミルト・ゲイブラー が設立した『コモドア・レコード』で発売されヒットしました

1939年7月22日付け『ビルボード』チャートの16位

音楽が『アメリカの人種差別や隔離政策』を取り上げることは一切ありませんでした

『奇妙な果実』は 公民権運動の火付け役であり 白人社会に対する宣戦布告だったのでしょう



ミントンズ・プレイハウス


1938年にテナーサックス奏者 ヘンリー・ミントン によってニューヨーク・ハーレム設立されたジャズ・クラブ

スゥイングミュージックは1940年代になっても人気でしたが ビックバンドの楽譜通りの演奏に飽きて黒人ジャズメンは クラブ営業終了後の深夜に集まって 自由なジャム・セッションが行うようになりました

当時のマネジャーだった テディ・ヒルは 集まってきたジャズメンには タダで食事と飲み物を振舞っていたそうです


その後『ミントンズ・プレイハウス』は ニューヨークの最先端をゆくクラブとして評判になっていきます


黒人ジャズメンが自らの文化に誇りをもち強い意志を持って主張できる場

『ミントンズ・プレイハウス』における自らの実力を披露する真剣バトル


これが要因となって ビ・バップ革命 が起こります



その後 世界は

1939年9月【英独戦争】~1941年6月【独ソ戦争】~12月【太平洋戦争】へ



戦時下のジャズとレコーディング・ストライキ


✅『灯火管制』『深夜の外出禁止令』によってナイトクラブは経営難
✅ ゴムとガソリンが配給制でレコーディングも激減
✅ 多くのジャズメンが徴兵されました

グレン・ミラー

空軍で軍楽隊を作りましたが イギリス海峡上空で死亡

ベニー・グッドマン

背中の怪我のために徴兵を猶予され慰問活動に積極的に参加

デューク・エリントン

戦争時42歳だったために徴兵されずラジオ番組のホストを務める

ルイ・アームストロング

戦争時40歳だったために徴兵されず積極的に慰問活動を行った

チャーリー・パーカー

ドラック中毒のために徴兵されなかった


アメリカ国内の音楽業界に目を転じると

AFM(米国音楽家連盟)が著作権料の増額などを求めて レコーディング・ストライキが行われます

① 1942年8月~1944年11月の27か月間

レコード会社は レコードの原料が不足している現状なのでAFMの要求を断り ほとんど録音は行われない状態に

② 1947年12月からおよそ1年間

TV放送局・映画配信会社・ジュークボックスの著作権を求めて

この当時は大手レコード会社での録音は行われていません


そこで ジャズのインディペンデント・レーベルが誕生します

【サヴォイ・レコード】

1942年にハーマン・ルビンスキーとオジー・カデーナによりニュージャージー州ニューアークに設立

【キーノート ・レコード】

1940年にエリック・ベルネがニューヨークに設立 1943年からハリー・リムがジャズ録音を開始

【ダイアル・レコード】

1946年にロス・ラッセルがロサンゼルスに設立 翌年ニューヨークに移転

これらのインディレーベルがなければ 

初期のビ・バップの貴重な音源が残されることはなかったでしょう


(ご参考)当時国家事業として『Vディスク』が制作されていた

『Vディスク』:第二次世界大戦中および戦後の数年間に 米軍が前線や占領地の兵士に公式に配布したレコード(Vは「Victory(勝利者)」の頭文字)戦中は専用の蓄音機や楽譜とともにパラシュートで戦地に投下され 戦後は船便などで占領地に届けられていた



時代はビ・バップへ


戦時下には様々な制限が行われ ビッグ・バンドの大勢人員の維持が非常に困難になっていき 「この戦時下にダンスなんて」という自粛ムードも相まってスウィング・ミュージックの人気に陰りが出ます


ジャズの世界は 黒人主導の ビ・バップ革命へ


そして

1944年 マイルス・デイヴィスが チャーリー・パーカーに会うために ニューヨークに進出します

いよいよ ジャズの黄金時代がやってきます


しかし残念なことに 

多くの黒人ジャズメンに対する厳しい人種差別は続きます




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