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私に影響を与えたアーティストVol.6 (Eric Clapton)

名曲「いとしのレイラ」は知っていたが、クラプトンにハマっていった“キッカケ”は、当時ロックに関するTV番組・ラジオ番組は殆どなく、おそらく<NHKラジオ第1放送:『若いこだま』(DJ:渋谷陽一氏>で聴いた全米1位のシングル・ヒットとなった

♬ アイ・ショット・ザ・シェリフ ♬
私が中学1年生の時だ。

『461 オーシャン・ブールヴァード』 US #1(1974年)


当時の情報源は音楽雑誌『ミュージックライフ』と『rockin'on』であったが
『クラプトン復活!』といった感じの記事が掲載されていた記憶がある
ここから、エリック・クラプトンのアルバムを集め始めることになった。

次に購入したのが

『いとしのレイラ』Layla and Other Assorted Love Songs

で、レコードが擦り切れるほど聴いただろう。

♬Layla♬ は、ジョージ・ハリソンの妻パティ・ボイドへ片思いしていた当時のクラプトン作った曲というには有名な話だ。

私のお気に入りは
♬ ベル・ボトム・ブルース ♬


クラプトンにハマっていく中で、ビートルズの『ホワイトアルバム』(1968年)収録の

ジョージ・ハリスン作♬ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス♬ のギターはクラプトンであることを知った。

そして、この時のギターは、クラプトンがジョージにプレゼントしたギターで『ルーシー』と名付けられたレスポール。

ジョージは『Let it be』では、この『ルーシー』を使った。

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デレク&ドミノス解散後、クラプトンはデュアン・オールマンやジミ・ヘンドリックスの死などから精神を病み、ドラッグに溺れ暫く音楽活動から遠ざかる。

放浪生活前の最後のステージは、ジョージが主催した

1971年8月1日ニューヨークマジソン・スクエア・ガーデンで「バングラデシュ難民救済コンサート」


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レインボウ・コンサート(1973年1月13日)


恋人のアリスとドラッグ漬けクラプトンを、ピート・タウンゼントの働きかけ実現した復活コンサートが“レインボウ・コンサート”だ。

クラプトンの全盛期とはまだほど遠い演奏であったが多くの歓声に包まれた。

このコンサートでクリーム時代のジョージ・ハリソンと共同で作曲

♬バッジ♬の演奏は、ギター『ルーシー』だった。



『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(1976年)US #15


ボブ・ディラン、ロン・ウッド、ビリー・プレストン、ザ・バンドのロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコなどが参加した名盤で、ボブ・ディランのデュエットを聴くことができるというゴージャスなアルバム。

評価は賛否両論あったが、ボブ・ディラン、ザ・バンドのファンである私にとってはお気に入りアルバムだ。

クラプトンはザ・バンドのアルバム『Music From Big Pink』を「音楽人生を変えたアルバム」と評し

ジョージ・ハリソンが本作を爆買いして「いいから絶対に聴いたほうがいい」と周囲に配りまくったというエピソードが伝えられている。


『スローハンド』(1977年)US #2


♬ワンダフル・トゥナイト♬は、 パティ にインスパイアされて作ったラヴ・ソング

1976年9月7日に、ポール・マッカートニーとリンダ夫妻が毎年開催するバディ・ホリー パーティーに出席するために、パティが身支度を整えるのを待つ間にクラプトンは彼女のために、この曲を作り上げたものだ。


パティ・ボイドとの出会い~結婚~離婚


1966年、ジョージ・ハリスンは映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』の撮影時にモデルのパティ・ボイドと結婚。

ジョージは、妻は家にいるべきだという考えでボイドはモデルの仕事を減らしていって束縛することが離婚の原因とも言われている。

(ジョン・レノンもミック・ジャガーも、パティ・ボイドに惹かれていたと発言しているくらいの女性だった。)

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このジョージの束縛から逃れたかったかったのか?パティはロン・ウッド(現ローリングストーンズ)との浮気が発覚して1973年に離婚。

その後、パティはクラプトンと正式に付き合うようになっていた。


当時のクラプトンは、ドラッグの一種であるヘロインを断つことに成功していたが、その反動もあってか、アルコールの摂取量が多くなっていき、ついに正式にアルコール依存症の宣告を受けることなる。


パティとクラプトンの結婚生活(1979年-1989年)は周りから見れば幸せそうに見えたが

1982年1月、エリックはヘイゼルデン中毒治療センターに入りました。彼はバックスライドをしたが、数年後に2度目のリハビリに入った。

1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた。

1989年イタリア人モデルのロリ・デル・サントとの浮気が発覚。

これが決め手となって、パティとクラプトンとボイドは離婚した。

ロリ・デル・サントは1986年にクラプトンの息子“コナー”を出産していた。

1991年3月20日母親ロリ・デル・サントのニューヨーク市のアパートの窓から誤って落ちて“コナー”が亡くなった。

(パティは、この葬儀までクラプトンの子供とは知らなかったとインタビューで語っている。)

この時に作った曲が♬ティアーズ・イン・ヘヴン♬

この息子コナーの死によってクラプトンはアルコールを断つことができたそうだ。


アンプラグド〜アコースティック・クラプトン (1992年)


MTVアンプラグドで放送されたパフォーマンスを収録。

グラミー賞ではアルバムがアルバム・オブ・ザ・イヤー及び最優秀男性ロック・ボーカル・パフォーマンス賞を受賞。

本作に収録された「いとしのレイラ」が最優秀ロック・ソング賞を受賞。

1998年2月私財を投じて『クロスロードセンター』というドラッグ及びアルコール依存症の更生診施設設立を発表。


原則の一つは、自分で治療を受ける余裕がないカリブ海の最も貧しい人々の一部に補助金を提供すること。

これらの個人に「奨学金」を提供する財団が設立された。


クロスローズセンター財団の資金を集めるために、エリックは一連のギターフェスティバルとギターオークションを開催。

1999年6月24日、クラプトンはクリスティーズ・オークション・ハウス/ニューヨークでは「ブラウニー」(「レイラ」を録音したギター)を含む100本のギターを競売にかけ、財団のために約500万ドル(米国)を獲得。

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1999年6月30日、クラプトンはニューヨーク市のマディソン・スクエア・ガーデンのセンターのためにコンサートを開催。

2004年6月4日、5日、6日、テキサス州ダラスで第1回クロスロード・ギター・フェスティバルを開催。

2004年6月24日に2回目のギターオークションは、財団のために600万ドルを集めた。

2011年3月の3回目のギターオークションで、さらに175万ドルを獲得。

2007年、2010年、2013年にさらに3つのクロスロード・ギター・フェスティバルを発表。

CDやDVDの販売による収入は、クロスローズセンター財団の利益を引き続き受けている。


まだまだ、書き足りないこと、紹介できていないアルバムばかりだが、それほどクラプトンは私に多くの影響を与えたアーティストだ。



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