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【真面目に】『ビ・バップ』の誕生は西洋音楽史上の大革命だったが(中編)

ビ・パップ時代の到来


1945年:酒と薬にどっぷりつかったチャーリー・パーカー(以下「バード」と略す)と 酒も薬も全くやらないディジー・ガレスピーがクインテットを結成して活動をスタート

※ この時期 バードはマイルス・デイヴィスと1年間ルームメイトとして暮らします

1945年11月26日:バードの初リーダー録音『サヴォイ・レーベル』に吹き込まれました

セッション全体を記録した最初のアルバムが『The Charlie Parker Story』

【パーソネル】チャーリー・パーカー(as) ディジー・ガレスピー(tp, p) マイルス・デイヴィス (tp) サディス・ハキム (p) カーリー・ラッセル (b) マックス・ローチ (ds)


しばしばステージをすっぽかすバードに手を焼いていたディジー

1946年ハリウッドにある"Billy Berg's"というクラブで演奏後コンビ解消


バードは 一人ハリウッドに残り ダイアル・レコードで多くの録音を残しています(NYへの飛行機代が薬代となって帰れなかった?)

LAではヘロインの流通が少なく入手困難の上に価格はNYの3倍


【1946年7月29日 歴史的に有名な"Lover Man" セッション
バードが出だしをミスって遅れてサックスを吹き始めます
(禁断症状を紛らすために泥酔状態)

この夜 バードは 錯乱状態になり ホテルのロビーに全裸で表れて注意され 部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎを起こして

10日間の勾留後 カマリロ精神病院に送られ6か月間入院



1947年2月 退院後再びダイアルでセッション

【パーソナル】:ハワード・マギー(tp) ワーデル・グレイ(ts) ドド・マーマローサ(p) バーニー・ケッセル(g) レッド・カレンダー(b) ドン・ラモンド(ds)

この時にバードが用意した曲が『Relaxin' at Camarillo』(ハワード・マギーがパート譜を作成)

リハーサルの際 バード以外は譜面を見ながら練習を始めました

この光景を観たバードは「君たちが演奏できるようになったら 呼びに来てくれ」と告げて 車の中で酒を飲みながら待ちましたが 全員が演奏できるようになった時には ボトルは空で酔いつぶれていました



1947年4月 ニューヨークに戻ったチャーリー・パーカーは、新しいグループを結成します

【チャーリー・パーカー・クインテット】
マイルス・デイヴィス(tp) デューク・ジョーダン(p) トミー・ポッター(b) マックス・ローチ(ds)



『ビ・バップ』はテンポが速過ぎるために 踊れるスウィング・ミュージックを好んだ人々からは敬遠されました(白人社会には黒人主導の『ビ・バップ』に対する嫌悪感もあったのでは?と考えられます)

しかし『ビ・バップ』に対する好奇心は急速に高まり 人気を得るにつれてレコーディング・ストライキが終わった大手レコード会社も 徐々に参入し始めて『ビ・バップ』の黄金時代が到来しました



バードの中毒は何だったのか?


バードにとっての中毒の対象は 元々は『サックスを吹くという行為』だったと思います

ジェイ・マクシャン曰く

「バードがしたかったことはひとつ、何の気兼ねなくずっとサックスを吹き続けたかったのだ。彼は疑う余地もなく、サックスが大好きだった。」


バードは生涯 麻薬を賞賛することは一度もなかったと言われています


ダウンビート誌1949年9月9日号に掲載された マイケル・レヴィンとジョン・S・ウイルソン両氏によるバードへのインタビュー記事(山田チエオ氏に翻訳)

マリファナだろうが注射だろうが、麻薬をやってとても上手く演奏できていると言うミュージシャンは、明らかに大嘘つきだよ。わたしは飲みすぎると指を動かすことさえ上手く できなくなるし、ましてや、まともな演奏なんかできなくなる。わたしは、麻薬を常習していたころは麻薬をしていないときよりも上手に演奏できていると思っていたのかも知れないが、今レコードを聴き返してみると、そうでは なかったとわかる。頭の回る若い連中は、すばらしいサックスプレーヤーになるには麻薬ですっかりハイになるべきだと言うが、彼らは単に麻薬に夢中になっているだけだよ。そこに真実はない。わたしにはわかっている、 本当だ


しかし残念ながら 天才は禁断症状に苦しみ 麻薬注射を繰り返し ジャンキーになっていったというのは事実です


誤った三段論法


「バードはジャズの天才だ。バードはヘロインなしでは生きていけない。ゆえに、ヘロインはジャズの天才になくてはならないものだという三段論法だ」(引用:ハリー・シャピロ著書『ドラッグinジャズ』)

この『三段論法』がジャズメンのドラッグ神話の根拠にもなっています


【薬物問題はアメリカ合衆国における移民問題や人種問題の象徴】

✅ 阿片は中国人労働者によって使用されていたこと
✅ コカインはアフリカ系黒人労働者によって使用されていたこと
✅ マリファナはメキシコ人の移民労働者によって使用されていたこと


1940年代中期以降 NYが他の都市よりヘロインが入手しやすかった背景には マフィアの存在がありました

「ヘロインはNYのストリートでアスピリンよりずっと手軽に買える」

ヘロインは 阿片はトルコなどでモルヒネに加工 マルセイユでヘロインに精製してニューヨークに密輸されていました



「チャーリー・パーカー ビリー・ホリディというジャズのヒーロー&ヒロインが「最高のプレイ」を与えてくれるのはヘロインのおかげ ヘロインこそが自分の音楽の力を増進させる」

こんな間違った考え方も広がっていき 1940年代から50年代のニューヨークのジャズ・ミュージシャンは ヘロインにのめり込んでいったのでしょう

NY市警は 見せしめ的に 黒人が住む地域を取締りの標的にして 麻薬中毒になっていったジャズ・ミュージシャンを薬物所持で摘発し キャバレー・カードを剥奪して仕事をできなくしていきます



アメリカ海軍との密約「暗黒街計画」


「暗黒街計画」とは

アメリカ海軍は ニューヨークの埠頭や繁華街での諜報活動には マフィア組織の協力が必要と判断して 獄中のラッキー・ルチアーノ(イタリア・シチリア出身:マフィア組織の合理化を試みた近代マフィアの祖・ニューヨークのドン)に協力依頼 1943年のシチリア上陸作戦(「ハスキー作戦」)の際にも協力依頼(この時の密約が「釈放」)

ドイツが降伏してヨーロッパ戦線が終結した直後 ルチアーノは恩赦によって釈放されます(市民権を持たないので1946年2月イタリアへ強制送還)


結果として コーザノストラ(シチリア・マフィア)とアメリカ・マフィアとユニオン(コルシカ島の犯罪組織)との国際的麻薬交易を復活させる状況を作り出し マフィアの重要産業になっていきました


ルーズベルト大統領は『連合軍勝利のために命を張った』見返りとして 重要な社会問題である『ヘロイン』密輸を黙認したことになります



次号へ続く


アメリカ人すべてが人種差別主義者ではありませんが 多くの白人至上主義者と黒人差別論者が存在しているのは事実です

白人至上主義者の中には「奴隷制度廃止は間違いだった」と公然と主張する者もいて 

アメリカ社会の根底には『黒人差別を許容する意識が変わることなく』流れ続けています



1946年 当時主要ジャズ雑誌の人気投票では常に1位だったJ.J.ジョンソンは「注射針」が発見されて逮捕(司法取引に応じて実刑は免れる) キャバレー・カード剥奪される
1947年5月:ビリー・ホリディはフィラデルフィアでヘロイン所持で逮捕され1年間の懲役刑
1951年 チャーリー・パーカーはキャバレー・カードを剥奪される
1951年 セロニアス・モンクは無実でありながらバド・パウエルをかばってキャバレー・カードを剥奪される



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