“謝る”行為はカッコイイ行為
原因はどうであれ、相手に迷惑をかけたと気づいた時点で、
「申しわけありませんでした」と謝ることは、
社会人としてのマナー。
何でも謝って済むことではないけれど、謝れない人はダメ人間。
企業の謝罪会見は、偉い人が並んで頭を下げるという“パフォーマンス”で、誠意を感じない“形式化”した【謝罪という儀式】という印象しかない。
“誰に” “何について” 謝っているのか? と疑問を抱くことは多い。
被害者に謝罪するためなら、わざわざ謝罪を公開する必要はない。
大企業のトップといった“権力”を持っている人は、中途半端なプライドがあるのか?
何らかの言い訳をして自分を正当化したいのか「遺憾です」と言うだけで謝っていない。
【”誰に“?】
被害者と同時に、ステークホルダーと視聴者にも向けられている“謝罪”と考えるのが自然だろう。
【“何に”?】
騒動によって迷惑をかけた関係者への“謝罪”?
社会道徳を侵犯し、多くの方々に不快な思いをさせたことに対する“謝罪”?
「素直にシンプルに 『ごめんなさい』 って謝ったらいいのに」って思うが、、、。
私は子供の頃、野球している時に不注意で、友達に“怪我”をさせたことがあった。
家に帰って母親にその話をした。
おそらく、自己保身の“言い訳”ばかりの内容だったのだろう。
その後、父親から「『何が悪かったのか?』『自分はどうすべきなのか?』を考えろ。」と言われ、私は泣き出した。
この涙は、父親が怖いのでなく、自分の“言い訳”に対するものだった。
父親は
「わかった? 今から、自分一人で謝ってこい。 『ごめんなさい』と頭をさげてこい。」と言って、私を家の外に放り出した。
昨今は、子供が“ケンカ”したら、“親”が出ていって「すみませんでした」と謝っていると聞くが、
誰が誰に、何のために謝っているのか?
そんな“曖昧”な【謝罪】は、何の役にも立たないし、何の意味もない。
【意思決定したのは国の機関】 ⇒ 【“最終判断は総理大臣”=“政治判断”】なので、
大臣や官僚が一個人として“謝る”ことは出来ない。
大臣や官僚が一個人として“謝る”のは間違っている。
という官僚主義世界独特の考え方があるのかもしれない。
国民に問いかけなければならない時に、官僚主義・政治主義の“自己保身”ほど邪魔なものはない。
東日本大震災後、AC広告機構のTVCMで次の言葉を思い出して欲しい。
「心」は誰にも見えない。けれど「心遣い」は見える。
「思い」は誰にも見えない。けれど「思いやり」は見える。
あたたかい心も、やさしい思いも、行いによってはじめて見える。
「柔よく剛を制す。剛よく柔を断つ。」のは武道の世界だけではない。
何事にも凝り固まらずに、時に強く、時にしなやかに、その場その場で適切な手段を講じる人は、
「ありがとう」
「ごめんなさい」
を心から言える人だ。
“謝る”という行為は、カッコイイ行為。
「ごめんなさい」は、カッコイイ言葉。
心に迷いある時は人を咎む、迷いなき時は人を咎めず。
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