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私に影響を与えたアーティストVol.4(レッド・ツェッペリン)

中学1年生~2年生になる春休みに、“Led Zeppelin”~“Physical Graffiti”の6アルバムを一度に購入した。

毎月の小遣いとお年玉を貯めて、自分にとっての初めての“大人買い”だった。
(“Physical Graffiti”が発売になった直後のことだ。)

家に戻って、レコードに針を落とした瞬間の高揚感は今でも忘れられない。

【 “Good Times Bad Times” 】

ラジオでしか聴いたことがなかった“レッド・ツェッペリン”が自分の部屋で好きなだけ聴ける。

春休みだったこともあって、朝から夜中まで、眠る時間を削って聴き込んだ。

この出来事は、私を “ロック中毒者” “ロック依存症患者”にしてしまった。

還暦間近の今でも“依存症”は治っていない。

【 “Whole Lotta Love” 】
(ジミー・ペイジのギターソロが “カッケー!”)

レッド・ツェッペリンは、強権的なマネージャー:ピーター・グラントのおかげでビジネス的にも成功したバンドだ。

当時、レッド・ツェッペリンの音楽を聴いたことがある人がいなかったアトランティック・レコードと、ジョン・レノンやポール・マッカートニーの8倍もの印税率で契約に成功した。

【 “Since I’ve been Loving You” 】

レッド・ツェッペリンにとっての初来日公演の1971年のことだ。

ツアーの行程は東京で2回、大阪で2回、そしてメンバーの希望によって“広島”で開催された。

彼らは、原爆ドームと原爆資料館を訪れた。

午後には広島市役所を訪問し、市長に被爆者援護資金としておよそ700万円寄贈の目録を手渡したのだ。


< ロバート・プラントが広島市長との会見で発した言葉 >

「原爆投下は誰が悪いというより、我々人間の仲間が起こしたことです。
同じ人間としてその事実にやはり申し訳無さを感じます。そして少しでも苦しんでいる人たちのために自分たちが力になれたらと考えました。
音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。
その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います」


スクリーンショット (2419)

コンサート&プライベートの模様を描いたセミ・ドキュメンタリー映画 『レッド・ツェッペリン狂熱のライヴ』(The Song Remains the Same )は、公開日に映画館に観に行った。

映画としての批評は“悪評”が多かったが、私にとっては、“レッド・ツェッペリン”のステージを初めて大画面で観たので、それだけ大いに価値のある映画であった。

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ロックスター“あるある”のホテルでの“乱痴気騒ぎ”事件は数知れず。

来日公演時の東京ヒルトンでは、

【ロード・マネージャーのリチャード・コールとジョン・ボーナムがサムライの刀で部屋をずたずたに切り裂いた】

というエピソードがイギリスで出版された『The Word's Greatest Rock'n'Roll Scandals』に掲載されている。


1980年9月24日、ジョン・ボーナムは、ジミー・ペイジ宅でパーティ後、酔い潰れてベッドに寝かされた。

翌日、ツアー・マネージャーのベンジ・レフェヴレとジョン・ポール・ジョーンズが、ベッドで死んでいるジョン・ボーナムを発見。

死因は、吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死であった(32歳没)。

“レッド・ツェッペリン”は、同年12月4日に解散声明を発表した。


【 “Stairway to Heaven” 】

ジミー・ペイジは、2015年7月30日、44年ぶりに広島市を訪れ、被爆70年を前に原爆慰霊碑に献花した。

「あの時、起きたことは、世界全てが忘れてはならないことです。心から平和を祈り続けたいと思います」


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被爆2世である私にとって、

【 ロックの本質は、“愛” と ”平和“ である 】

と教えてくれた“レッド・ツェッペリン”は、

誰が何と言おうと“史上最高のロックバンド”だ。


1971年広島訪問の際に、東京で買ったムービーカメラで、ここ慰霊碑や平和公園の風景を撮影していたもの






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