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プラットフォームの終焉を前にして

昨日の夜から朝にかけて何かTwitterのTLが読み込めないなと思ったら、Twitter上で閲覧できるツイート数に制限が課されたそうだ。

結構な衝撃的なイベント。思い出すのは、mixiの足あと機能の廃止。

あの時はどっぷりmixiというプラットフォームに自分の情報が保存されていた。
そして、気付けばこの10年の人と人の交流の広がりのあるプラットフォームはTwitterだったかもしれない。

最初の転職はTwitterのDMがキッカケだった。インターネットという世界において法務のコミュニティの存在を知った。
その後も、TLに流れる話題、みんなが読んでいる記事、書籍、話題を共有していることで距離を超えて繋がっている感覚を持ち続けることができた。

Twitterの存在はもはや空気、インフラ、電話、回覧板。

でも、プラットフォームが私企業により運営されている以上、突然終わりが来る。

その時、終わりが来てもつながり続けるものは何だろう。
実際、Twitter上の人とは、複数の手段で繋がっているということもあるが、全くの同じ空気は再現できない。
そして、Twitterだけで繋がっている人とはプラットフォームの終焉とともに限りなく繋がりがなくなっていく。

人と人がつながり続ける権利。
一度できたコミュニティを、無碍になくすことを禁止する法律。

様々な大規模なプラットフォーム規制が存在するが、今回のような事態を未然に防ぐことはできない現状を私たちは目の当たりにしている。

日本語の漢字はユニークで。「人間」というところの「間」これがコミュニティを表している。「間」の存在が侵されているのを感じるのだが、元々プラットフォームに下支えしてもらって存在しているものだったのだ。

そうなってくるとやはりオンラインオフライン様々な形でリスクヘッジが必要なんだろうな。
それは散々言われていたことだったかもしれないが。

人のプライバシーというのも、これだけプラットフォームが社会生活に浸透している以上は、プラットフォームのあり方が個人のプライバシーのあり方を規定している、というふうに言われることもあった気がする。

公的なコミュニティのあり方が、自分の個を規定しているのだとしたら、今回のTwitterというこの10年の個を支えてきたプラットフォームの終焉は、人々のプライバシーのあり方にとっても無縁な話ではない。


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