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手話サークルに行っても、真に「手話」と出逢えなかった。手話は、身振り、音声の補助としか思っていなかった。

私は高校のとき、一時期、母と一緒に地域の手話サークルに通っていたことがある。

手話サークルに行った最初の日、自己紹介をすることになった。
私は、自分の名前を声を出して自己紹介することがとても嫌だった。自己紹介を回避すべく、母の自己紹介の次に「(母を指さし)の、娘です、〇〇です」と言った。
その場にいた人々は、笑った。私も一緒に笑った。

当時、手話は「身振り」「手真似」という認識が社会的にも主流であった。私自身も、その認識を持っていた。手話は、音声の補助としか思っていなかった。声を出さないで自己紹介をする手段があるなんて当時は思いもしなかった。

私は幼稚部から中学部まで16年以上は聾学校で過ごしたのだが、手話はできなかった。先生は手話を使わず話をし、級友とは、口の形を読んで話をしていた。聾学校で手話はタブーだった。
私が知っている手話といえば、男、女、でたらめ、などの数単語しかなかった。しかし高校に入ってみると、手話を級友から時々聞かれることがあった。聞かれても私には分からない。それで手話サークルに通うことにしたのだそうだ。「だそうだ」というのは、私自身がまったく覚えておらず、母から聞いたことだからである。

手話サークルでは、グループ別に学習をしていた。グループの発表者で、順々に、テキストに載っている単語を繰り出していく。「男」「女」「名前」・・・。私も、順番がきたときには、単語を手で表した。声もつけたと思う。
私は、学習者の手は見ていなかった。顔、口だけを見ていた。手の動きは、意味をもったものとしては全く頭に入ってこなかった。そこにいるみんなは、みんなお面をつけているように見えた。

しばらくして私は手話サークルに通うのをやめた。母も一緒にやめた。手話サークルにはどのくらい通っていたのか、覚えていない。手話サークルに行って、手話を覚えたという実感はまったくなかった。

そもそも、私は、手話がないと困る、手話を学んだほうがいい、などは全く思っていなかった。ただ手話をつけて話してくれると、話すスピードが落ちて口が読みやすくなるから、その面で手話は便利なものだ、手話を知っていたほうが級友との話の範囲が広がり便利かな、ぐらいにしか思っていなかった。

たぶん私はつまらなかったのだ。しかし自分がつまらないとは気づかなかった。「つまらない」といえば私が通っていた高校も、相当に「つまらない」世界だった。しかし私には、その世界が自分の標準だったからだ。
当時私がいた世界は、水中を裸眼で見た世界のように、見えるものはもやもやしていた。
それでいて、波一つ立たない水面のように、変化がなかった。
泡立つ心、さざめく心、浮き立つ心、といった起伏は、どこかに押しやられてしまっていた。

手話サークルが終わって、手話サークル学習室の出入り口でたむろしている人たちがいた。今思えば役員たちだった。その中に表情が豊かな人が1人いて、「顔が見えた人」として記憶に残っている。

手話サークルには、聾者は来ていなかった。来ていたかもしれないが、私は覚えていない。

高校時代に手話サークルに通っていたことを、私は本当に忘れてしまうことがある。新幹線の窓から見た、ビュンビュンと流れとぶ風景のように、手話サークルの場を、ほとんど何も見えていないまま私は通り過ぎた。

私が真に手話に、聾の世界の歩き方としての「手話」に出会ったのは高校を卒業してからのことである。

輪郭がぼやけた世界に、私はもういない。

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