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手に爪を立てた祖父と孫。会話がほとんど成り立たなかった二人だが、別の時間、別の空間でつながっていた。

聾学校後輩のK君は、いつも、両腕をぶらぶらさせて飛び跳ねるようにして歩いていた。自閉症と聴覚障害の重複だった。

自分自身が障害をもっているという意識があまりなかったため、「ちょうふく」とは、何と何の重複なのかも考えたことがなかった。また「じへいしょう」とは聞いていたが、自閉症がどういうものなのかも知識として全く持っていなかった。

K君は1人だけの「重複学級」だった。
時々教室をのぞいてみてみると、K君は、よくオレンジ色の大きなお皿みたいなものに乗っていた。それは、おきあがりこぼしみたいなもので、自分でゆするとゆらゆらとして倒れてもまた元の姿勢に戻る遊具であった。ずっと楽しそうに飽きずにゆらゆらしていて、見ていて、私もやってみたいないいなと羨ましく思っていた。

K君は、整列のときに、時々、ふらりと離脱していたようだった。そのたびに、近くの生徒がひっぱって戻していた。
今思えば、K君にとって、長い時間整列で立っているというのはかなりの苦痛だったろう。もちろん、手話を含め視覚的に分かるサインなどない時代のことである。

みな、K君のことは遠巻きにみる感じだった。
私は、小学校高学年の頃、K君にふと興味がわいた。
会話が成り立たないようだが、どこまで分かっているのだろうか?
私はすぐK君の前に立って、向かい合った。視線は合わないままだ。私とは全く視線を合わせず、どこか遠くを見ていた。
手を握ったらどうなるのかと思い、K君の両手を握ってみた。両手を握ってみても、向こうは握られるままになっていた。ふりきることはしなかった。強く握ってみたが、K君の反応は無いままで変化がないように見えた。

K君の手に爪を立ててみた。
K君の顔が初めてゆがみ、手をふりきって、しずかにゆっくりその場を離れていった。痛いのは分かるんだな・・・と私は思った。

私の通っていた聾学校では、保護者たちで作る文集が毎年3月に発行されていた。その中に、K君の母親からのコラムもあった。K君の母親は、いつも、K君の視点で書いていた。担任の先生へのかすかな不満、今後のこと、周りのこと。K君の母親は、K君の心境をおもいはかり、代弁するような気持ちで書いていたのだろう。

私はその後中学生になり、中学卒業と同時に、私は聾学校を卒業した。K君とはそれきりになった。
自閉症について、大学で学ぶ機会があった。そのたびに、私はK君のことを思い出していた。手に爪を立ててしまったことも。K君には申し訳ないことをしたと思った。聾学校を卒業しておよそ10年がたっていた。

話が前後するが、聾学校を卒業して数年後、祖父が死んだ。
私はおばあちゃん子で、祖母とは会話がまだ成り立っていたが、祖父とはまったく話ができなかった。
私が小学校に上がる前は、祖父母家で過ごすことが多かった。あぐらをかいている祖父がおいでおいでと手招きしてきた。そして、自分のひざに座らせてくれた。しばらくすると、祖父は私の手に爪を立てるのだった。痛い!とすぐ飛び出し逃げて、祖母に訴えた。祖母に抱きつきながら、振り返ると、祖父は苦笑いをしていた。その後も何度か、笑顔でおいでおいでと手招きされた。その笑顔は嘘ではないかまた爪を立てられるのではないかと思いながら、おそるおそるとひざに座りに行った。やはり、そのたびに、手の甲に爪を立てられた。何度かそれを繰り返し、私はついに呼ばれても行かなくなった。

祖父のことは嫌いではなかったが、何を考えているのか分からず怖い存在だった。爪を立てられたことを母に言ってみたこともある。しかしそんなことをする人じゃないよ、と信じてもらえなかった。

何年か前に、何かの拍子で、それを思い出した。
するとなぜか突然K君のことも思い出した。祖父とK君がシンクロした瞬間であった。急速に、2人とのそれぞれの思い出が一瞬で脳内で再生された。

聴こえない孫の手に爪を立てた祖父は、そのまま、K君の手に爪を立てた私であった。悪意があったわけではない。単に、確認したかっただけなのだ。「生きている」のかどうか。

祖父は、あぐらをかいて私を座らせて、私の後ろで何か言っていたのかもしれない。でも聴こえない私は、反応しない。声も出さない。ひたすら身を縮こまらせてただ座っている。爪を立ててみたらどうなるかという単純な好奇心だったのだ、きっと。

聴こえる祖父と聴こえない孫は、会話をほとんどしなかった。だが、別の時間、別の場所で、同じ行動をとっていた。

祖父に爪を立てられ、逃げた私を抱きとめてくれた祖母も、ついこの間亡くなった。今はただ、私の脳内にしかない記憶の一片である。

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