見出し画像

聾学校保護者のコラムで構成された文集を私は読んだ。手話がタブーだった時代の聾学校で、聴こえる親、難聴の親、聾の親がコラムを寄せた。

聾学校には、保護者で作る文集があり、年度末の3月に刊行されていた。表紙の色は毎年変わった。大きさはA4サイズくらいだった。

保護者たちは、自身の子どもの微笑ましいエピソードや親自身の気づきなどをコラムに書いた。それは、学校で共に過ごす「ともだち」は家でどんなふうかという意外な一面をかいま見られる、という点で、私は読むのが楽しかった。母親の手によるものがほとんどだったが、父親によって書かれたものもあった。
私の親は、聴こえない妹も含めて、15年以上は聾学校との関わりをもった。毎年刊行されるその文集は10数冊になり、物置に横積みにされていた。私は物置に入ったときに、それを手に取り、読むことが時々あった。

私の母も、私や妹のことについて書いた。ある年、母が書いたのは以下のようなことであった。

娘に「もし、聴こえない子どもが生まれたらどうする?」と聞いた。
娘は「育てる」と答えた。私はそのことに感じ入った。

そんなエピソードを母は振り返ってコラムに書いたのだ。私はそれを文集に載った形で読んだ。確かにそんな質問をされたことがあったな、と私は思い出していた。
母にこの質問をされたとき、私は確か小2だったと思う。当時妹はまだ幼稚部だった。母にとって、2人目も「また」聴こえない健康な子どもが生まれて、4、5年経った頃であった。母は、おそらく、私も聴こえない子どもを生む可能性が高いことを考えていたのだろう。
母に「聴こえない子どもが生まれたらどうする?」と聞かれたときは、私は、なぜそんな質問をするのだろうと不思議に思った。
私は「育てる」以外の回答肢が思いつかなかった。育てる以外の回答肢は何かあったかな・・?と思いながら「育てる」と私は答えたのだった。

私自身は、自分が聴こえないことがどういう意味をもっているのかまだ分かっていなかった。私の周りは、妹もそうだったように「聴こえない子ども」だけであった。聴こえない子どもと聴こえる子どもどころか、「子育て」のことも、親になることがどういうことなのかも、分かっていなかった。
ただこの、母のコラムから、私はいくつかのことに気づいた。

聞こえない子どもを育てるのは「大変」なことだと。
生まれた子どもが聴こえないと分かった場合、それから「逃げる」こともできるのだと。
聴こえない人が子育てをするのはなおさら大変なことだと。

さらに読み進めていくと、他の保護者からのコラムのなかには、

聴こえづらい自分はお母さんたちの会話に入れない。
のけものにされていると感じるときもある。
聴こえない子どもが通う聾学校なのに、おかしいのではないか。

というものもあった。
残存聴力を活用して会話をする「難聴」のお母さんから寄せられたコラムであった。彼女はおそらく手話は知らなかったのではないか。ずっと聾学校にいた私でさえ手話を知らなかったのだから。
聴こえるお母さんたちの話に入れない。手話を使う聾のお母さんたちの輪にも入れなかったかもしれない。
聴こえない子どもは成長する。聴こえない大人になる。そして聴こえる人たちと共に働き、生活していく。今となりにいる聴こえない親たちは、我が子の将来の姿かもしれない。
そのことを今一度考えてほしい、と彼女は思っていたのかもしれない。聾学校のなかにある不合理を、そのお母さんは、きっと勇気を振り絞って、そのコラムに書き訴えたのだろう。

聾学校には、自身も聴こえない親もいた。デフファミリーの親だ。
デフファミリーの親から文集に寄せられたコラムは総じて短い文章ばかりだった。200字くらいだったろうか。日本語の助詞のつながりが不自然なものもあった。書くことについて苦手意識をもつ人がほとんどだったろう。
聴こえない親が書くコラムは、我が子の成長は聾学校や先生たちの教育のおかげ、という感謝の言葉でほとんど占められていた。聴こえない親の書くコラムは、すべてがすべて、そんな調子であった。
聴こえる親たちが「自由に」書いていたのとは対極的だった。
聴こえない親たちは、私にさかのぼること20、30年昔の聾学校を、私の時代より強烈な口話至上主義にまみれていた時代の、聾学校を卒業した「先輩」たちであった。日本語を書くことへの苦手意識もさりながら、聾学校での教育への萎縮もあったかもしれない。

そんなふうに、文集には、聴こえる親、難聴の親、聾の親がコラムを寄せた。

あれから30数年。この30年で、子どもの自然な発話と親子のコミュニケーションを大切にしようと考え、手話で育てる聴こえる親が増えた。そんな社会の変化は、昔読んだ文集の呪縛から私を解放してくれる福音であった。

私に子どもが生まれた。私は、自身が「母親」になるために、子どもに手話で話しかけた。それは私にとって、至極当たり前のことだった。しかしそれは、私が子どものときは、当たり前ではなかったことだ。

あの質問をした母は、当時、手話で「おおっぴらに」子育てをする時代がくるとは想像だにしなかったろう。聴こえない娘たちが、手話で子どもとコミュニケーションをし、子育てをするようになるとは思いもしなかったに違いない。私自身でさえ思いもしなかったのだから。

まだ幼稚園児だった我が子と手話で話すとき、ひんぱんに、自分の幼稚部時代が思い出された。手話は使うべきではないものだった時代のことだ。
自分が親になってみて、我が子との親子関係は、あまりにも、自分の親との親子関係と違い過ぎる、と何度も思った。

親子で話すこと。子を育てること。私にとって自然なのは手話だ。
当たり前のことを当たり前にできることを、私はかみしめた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?