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聴こえない子どもと聴こえる親の間で。私たち姉妹は、互いを半身のように密着して生きてきた。

わたしには3歳下の妹がいる。私と同じく耳が聴こえない。
兄という存在に憧れていた私は、自分が兄をもつことは難しいからそれなら弟だ、と思って、母に、弟がほしいと言った。小学校高学年あたりの頃だ。

母は「また聴こえない子が生まれたらどうするの!」と言った。その話はそれきりになった。

私はそれを言われたとき、戸惑った。男か女かどちらが生まれるかわからない、と言われるかもしれないとは思っていたが、聴こえるか聴こえないかを言われるとは予想していなかったからだ。

聾学校には、私たち姉妹のように、聴こえない、聾の兄弟姉妹が何人かいた。聴こえる兄弟姉妹をもつ子もいたが、その存在は「見えない存在」であり、自分にとって聴こえる兄弟姉妹がどのようなものなのか想像したことすらなかった。そのためか、私は、生まれてくる弟(もしくは妹)が耳が聴こえるとか聴こえないとか考えたこともなかった。全く頭にものぼらなかった。

我が家は4人家族、半分聴こえて半分が聴こえない人だった。聴こえる人は父母だけであり、私と妹は聴こえない、聾だった。
大人と子ども、聴と聾。二重に、私たち家族は違っていた。1階に聴こえる人がいて、2階に私たち聾がいた。私は、1階にいるよりも2階に妹と一緒にいるほうが落ち着けた。
親の思考、行動様式は私たちとは違うことを、早くからわかっていた。
姉妹で自分たちだけの世界を作り、まるで映し鏡のように、同じように考え行動した。学校で誰々に何を言われた、いつどこそこで何をした、まで細かく報告しあい、できるだけお互いの体験を共有した。仮に、脳を交換したとしても、私たちは問題なくやりとおせただろう。
様々な場面で、私たち姉妹は助け合った。親が口だけで話してきて、それが分からないときは、それぞれに読み取れた単語をつなぎ合わせ補強しあった。聾学校からの帰り道、近所の小学生が何かはやしたててくると、私は妹を守らねばという思いで、強く言い返した。聾学校の授業を身をもって信用していなかった私は、家で妹に勉強を熱心に教えた。
もちろん喧嘩もたくさんしたし、私が妹に一方的に暴力をふるうこともしばしばだったが、それでも妹は私にとって何をおいても一番優先すべき存在だった。

そのような密着した二人の世界に、弟が入ってきてもいいなと思い、母に弟が欲しいとお願いしたのだ。
おそらく、私は、潜在意識では聾がほしかったのだと思う。聴こえる子どもを全く考えていなかったのだから。しかし、母にとっては、そうではなかったし、潜在意識というものでもさらさら無かった。聴こえる親と聴こえない子の間には断層があった。

後から聞いた話だが、私が聴こえないと分かって、2人目を作るかどうか母は悩んだという。そして、私が聴覚障害と診断をうけた医大病院の医者に相談したという。
その医者は「ご両親は聴こえますし、親戚に聴こえない人もいませんし、次のお子さんは聴こえますよ!」と太鼓判を押したそうだ。蓋を開けてみれば、その生まれた子も耳が聞こえなかったわけだ。私にとっては、本当に歓迎すべき結果となった。

余談だが、その医者は珍しい苗字の持ち主だった。
私が一般高校に進学して、クラス名簿をみた母は、その苗字を見つけた。
この人のお父さんはあのお医者さんに違いない、と当時の話をしてくれた。そのクラスメイトに聞いてみたところ、父は医者だという。その医者は、間違いなく、あのときの医者だろうということで、母と私は笑い合った。

私も妹も家を出、互いに離れ離れになると次第に、密着した世界の色は次第に薄まっていった。それでも、妹とは毎日メールのやりとりを欠かさない。会えば何時間でも話は途切れない。

お互いの夫が死ぬなり、別れるなりして、居なくなったら、私たちは再び一緒に暮らそうと約束をしている。

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