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世界は「聴こえる」「聴こえない」では二分できないのだと、私は高校生になって気づいた。私は「みにくいアヒルの子」だった。

聾学校中学部卒業後、私は一般高校に進学した。
自分の住む市では、自分のように一般高校に通う聞こえない高校生の知り合いはいなかった。幼稚部、あるいは小学校低学年までを聾学校で過ごしその後地域の学校に通った子もいたが、それきり会うことはなかった。
他の聞こえない高校生がどのようにして学校生活を送っているのか、私にはまったく情報がなかった。高校に入る前までも、高校に入った後も。

高校1年生の年度を終える頃、一般学校に通う高校生・大学生の団体があることを知り、その集会に参加した。
その団体は、聴覚障害学生が大学で学ぶために、いかに大学から情報保障の支援を引き出すか、そのノウハウをどう共有していくか、聴覚障害学生同士のつながりを作ることなどを活動目的としていた団体だった。当時は、大学としての公的な支援はないのが当たり前の時代で、受験させてもらえれば御の字というところも多かった。彼らは情報保障の必要性を大学に訴える理由として、口を揃えて「高校ではまだやっていけた。大学からは板書もないし、ゼミなど本当にわからない」と語った。
私は、今の高校生活でさえも、這う這うの体なのに・・。
仮に大学にいくとして、もし大学に入ったら、私はいま送っている高校生活以上に、もっと頑張らなければならないのか…と思った。

ただ同じ聴覚障害の大学生、高校生たちと話すのはとても楽しかった。私は当時手話はほとんど知らなかったが、それはお互い様のようなもので、口を読んでの会話をした。

会合には、自分の住む市からきていたのは私だけだった。会合はほとんど自分の市から100キロほど離れたところで行われたが、話すのが楽しくて、私はこまめに通った。自分のスケジュール手帳には、いつもは学校行事の予定しか書くことがなかった。そこへ、同じ聴覚障害学生たちとの会合を書き込むのは気持ちが弾んだ。
高校では、私はおとなしく暗く何も言わない生徒だったが、ここでは、ひさしぶりに自分の素を出すことができた。周囲からは、「明るくズケズケ物を言う女の子」とみなされていたと思う。

また、彼らと話してみると、自分とは悩みのポイントが違うことが分かった。アルバイトの指示出しを聞き間違う、就職活動で電話応対はどう話すべきか、など。「ある程度は聞き取れる」ことが前提の悩みだった。
授業が分からないクラス内で誰も話す人がいない…など自分の悩みは話さなかった。彼らと自分の生活はだいぶ毛色が違っていたが、「高校まではやっていけた」と語る彼らに、私が何か言えるはずもなかった。
自分がいま高校生活で孤独なのは仕方ないことで、それは多少なり、みんなも通ってきた道なのだろうとも思っていた。

ある日の会合で、円座を組み、色々話をした。そのうち1人の女性が、私にこんなことを聞いてきた。
「学校では、みんな、話分かってくれるの?」
私は、すぐに、自分の発音のことを言われているのだと気づいた。自分は、自分の発音や話し方が変だということをわかりすぎるほどわかっていた。
しかし「うんそうだよ」とできるだけ表情を崩さずに返した。すると
「だってみんな、発音分からないんじゃないの?発音が変。」
と言ってきた。

私は瞬時に理解した。「聴覚障害者」の中には、私から見れば聴者と変わらないまでに聞き取れる人もいるのだと。同じ聴覚障害者カテゴリの私よりは、聴者との距離のほうが近い人がいるのだと。
すぐに隣の誰かが、おいっ!とその人をたしなめたようだが、私はその後のことをあまり覚えていない。ただ、自分はその日はもう「ズケズケ物をいう女の子」には戻れなかった。
それきり彼女とは、会っていない。避けていたわけではなく、会う機会がないまま、高校卒業と同時にその団体との関わりも自然消滅した。

今思えば、その聴力障害学生団体のメンバーはみんな「難聴」だったのだ。聾学校に一度も通ったことのない人たち、幼稚部しか通っていない人たち。家族や親しい人だけなら電話できる人たち。一対一でなら話を聞き取れて話ができる人たち。「拙いながらも」発音ができる人たち。

自分は、その団体の会合で、彼らの話を聞きながら「難聴」の悩みの一端を覗いた。それに引き換え、自分の悩みはほとんど話すことはなかった。話したくなかったのではない、自分と同じにおいをもつ人を、話の端緒を、見つけられなかっただけだ。自分は「みにくいアヒルの子」だった。
同じ「聴覚障害者」でありながら、身の処し方も、コミュニケーションの起点も、悩みのポイントも違う。
私はその団体の会合を通して、初めて「難聴」の人たちと出会った。
そして、私の発音を指摘した彼女も同様に、おそらく、初めて、私という「聾」と出会ったのだ。
あれから20数年。いま、彼女は、自分とは違う「聾」を理解できているだろうか。

そして「みにくいアヒルの子」だった私は、そのまま立派な「みにくいアヒル」になった。「みにくいアヒル」として、自分と世界をつなぐ境界をみつけ、生きている。
Deaf is beautiful.

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