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一般高校がたとえ暗いトンネルであっても、聾学校に戻るつもりはなかった。一般高校でも聾学校でも、私にはさして代わり映えしないと思っていた。

聾学校小学部5年生のときだったか、教室にいた私に同級生2人が近づいてきた。2人はにやにやしながら「この手話、何かわかる?」と、手の形を提示してきた。それは五十音のどれかを表しているものだという。
「指文字」というのだそうだ。当時の私には「手真似」も「手話」も「指文字」も区別がつかず同じものであった。同級生が出してきた手を、ためつすがめつ眺めてみた。私は全く分からなかった。あてずっぽうに、「の?」などと答えてみた。
ブー!!違う!!と笑いながら言われた。問題は5問出た。私はそのすべて見事に不正解であった。不正解のたびに、2人は笑い転げていた。答えは、「あ」「い」「う」「え」「お」の順であった。
私は勉強は一番できるのに、指文字のほうは全く分からないというのは、同級生たちにとって「痛快」なことだったのだろう。
全問不正解になり盛大に笑わられても、私は、恥ずかしい悔しいという思いはわきあがってこなかった。手で文字を表すというその「概念」に、私はただひたすら驚いていた。私は「手真似」の存在は知っていたが、「手真似」がどういうものなのか知りはしなかったのだ。
先生たち、親たち、周囲の大人たちは、「手」をコミュニケーションに全く使わなかった。食べる、書く、何かを持つ、などの手の機能を活用しつつ、それ以外で「手」を使うことはなかった。
私たち耳の聞こえない子どもに話し始める前に、手をふって私たちの注意をひくことさえ。

私たちは、常に気を張り、先生たちの口元を注視しつづけなければならない状況にいた。そんなわけであったから、「指文字」との出会いには、私にとって「発見」と同じであり、新鮮な驚きを伴った。
私は、同級生たちがいつどこで指文字を覚えたのか不思議でならなかった。学校では手話や指文字を習うどころか、使うことさえタブーだったからだ。
今思えば、同級生の1人はデフファミリーだったので、家庭で自然に覚えたのだろう。しかし私は、聴こえる聴こえないにかかわらず、親と手話で話す発想がなかった。聾学校内にいた、耳の聞こえない大人と話すにも手話を使わなかったからだ。
そしてもう1人の同級生は、家もごく近所で、朝誘い合って毎日一緒に登下校していた。2人とも、ほぼ赤ちゃんのときから一緒に長い時間を過ごしてきた。そんな中で、2人は私の知らない間に手話をいつのまにか覚えている。自分1人だけ取り残されてしまった感じがした。

いくつかの聾学校が集まって体育大会を共同開催する行事が年に1度あった。参加児童生徒は、小5から中3までである。
会場は、聾学校持ち回りで、遠いところへは列車で5時間ほどかかるところもあった。会場によっては、1泊2日の旅になった。体育大会前日の夕方は、各聾学校の余興を出し合う交流会が設けられた。
その「体育大会」で会う他校の児童生徒たちは、予定通りであれば、同じ高等聾学校に進学する。来るべき高校生活の、共に机を並べ、学校生活を送るだろう仲間たちであった。中3の生徒たちは、体育大会に参加できる最後の学年だったが、「来年は高等聾学校で会おう」という再会を期する挨拶を交わすことができた。

冒頭に書いたような指文字クイズを、私が同級生たちから出題されたのは、その初めて参加するその体育大会が近づいた頃であった。指文字クイズが終わった後に、同級生の1人から「体育大会では他校の生徒たちと話すには指文字必要だよ、覚えないと会話できないよ」と言われた。
彼女は、おそらく体育大会に参加した上級生から色々様子を聞いていたのだろう。同時に、いくつかの手話も、指文字も教わっていたのだ。そんなふうにして、聾学校では先輩から後輩へと、聴こえる先生たちから見えないところで、あるいは目立たないところで、手話が伝えられていたのだ。私は体育大会があることは知っていたが、参加経験のある上級生のリアルな感想など、そういうことを全く知らなかった。すなわち先輩から後輩へ繋がるルートから私は外れていた。仲間外れにされていたというよりは、私が、誰もいない図書室をぶらついたり他所の教室におしゃべり目的ではなく掲示物を読むために行ったりと1人で過ごすことが多かったからだろう。
毎日一緒に登下校した同級生とは、登下校中たくさんおしゃべりをした。その中で彼女はいくつかの手話を使った。私はそれを見て自然に覚えた。しかし自分からそれを使うことはなかった。使いたくなかったのではなく、私の脳と手をつなぐ回路がまだ通っていなかった。
また、私は聾学校内のあちこちで「ともだち」が数人輪になって何やら手を動かしているのを見かけることがあった。それを見ると、ああ手真似をやっているんだな、というふうに思っていた。そこに私が加わることはなかった。私にとっての「手真似」は風景と同化していた。

まだ見ぬその「体育大会」に向けての心構えを諭された私は、指文字を早く覚えなければならないと思った。指文字表は、その同級生から渡されたような気がする。今思えば、当の彼女は、どこでその指文字表を手に入れたのか。私は気合を入れ、2日間で覚えた。合わせて、いくつかの数字も覚えた。10歳の私は、湯船につかりながら、「8」の手話をするため薬指を伸ばしストレッチしていた。

私はみんなから「真面目」と言われていた。聾学校では「真面目」は「勉強ができる」と同義であった。「真面目」という形容詞にかすかな違和感を感じながらも、私は特に修正もせずほうっておいた。「先生の言うことをよく聞く」「手話を全くしない」という皮肉も含まれていたと思う。
かといって、私はやたらと迎合する性格ではなかった。むしろ自分の意見ははっきりと言うタイプであった。私を生意気だと思っていた上級生もいただろう。

話を体育大会に戻そう。
最初の1年目は、ほとんど他校の児童生徒とは話さないまま、終わった。気が付けば話さずに終わっていた、という感じであった。せっかく覚えた指文字も、数字も使うことはなかった。

私は中学生になった。中学生の私は、小学生のときより、多少明るく、雑談が好きな女の子になっていた。発音テストはもうなく、突然発音を修正されることもなくなり、発音のことを意識する時間はほとんどなくなっていたからかもしれない。週6日部活動にいそしみ、生徒会活動や行事が楽しく、勉強もそれなりに楽しいという「安定期」に入っていた。

何度目かの体育大会が近づいてきた。
指文字を覚えることを勧めてくれた彼女は、体育大会で出会った他校の友達との文通も勧めてきた。彼女がいうことには、文通をするのは「友達」である証明であり、文通する相手の数が多ければ多いほど、ステータスになるらしかった。既に彼女自身は、数人と同時に文通をしていた。
彼女は、運動神経がとてもよく、社交的で、流行にも詳しく、雑誌の「明星」で歌詞をチェックする女の子だった。上級生からも下級生からも人気があった。彼女にとって、文通相手とは、私とは違う部分で楽しく話せることもたくさんあるに違いなかった。
なるほど、私も文通相手を探して、私の経験値をあげておこうと思った。体育大会が縁で文通をしたのは2、3人だ。文通が重なっていた期間は短いと思う。私が高校に進学してしばらくして、最後の1人との文通も途絶えた。

体育大会が近づくと、皆そわそわしだした。昨年見かけたあの男の子にまた会える、今文通をしている友達にまた会える、そんなことを皆話し合っていた。体育大会が終わった後は、新たに作った文通友達や、他校の異性の噂などで持ち切りだった。
「体育大会」には、種目の順位を競い合う側面で、小さい頃から同じ顔触れで何年も一緒に過ごしてきた「友達」ではない、「友達」を自分で探し、選べる楽しさがあるのだろうと思った。
私も体育大会で、他校の生徒たちとちょっとした会話を楽しめるようになっていた。ただ、私は、皆のようにそわそわはしなかった。特に会って話したい相手もいなかったからだ。なぜそんなに盛り上がれるのだろうかと不思議な思いさえ抱いていた。

高校は、聾学校か一般校かどちらに進学するかということを考え始めたときに、私が思い描いた高等聾学校での生活は、体育大会の風景と重なっていた。一般高校のほうが大変かもしれないが、聾学校には無い何か新しいこと楽しいことがあるかもしれない、というふわっとした空想を抱いた。それは、一般高校を進路に選ぶ判断材料の1つになった。

そうして私なりに「体育大会」を楽しんだが、せっかく覚えた指文字も、湯船でストレッチをしながら練習した数字の「8」手話も、ついぞ体育大会では使うことはなかった。
最後の体育大会が終わり、そのまま私は卒業した。高等聾学校で彼らと再会することはなく、私は1人一般高校に進学した。

入学式から数日後、私は自分の見通しの甘さを思い知った。すべてが順調にいくとは思っていなかったが、まだ、もう少し、うまくやれるだろうと思っていた。私はたかをくくっていたのだ。高校生活がこんなに暗く、上空の縫い目さえ見えないトンネルのようなものとは、正直想像していなかった。

高校1年の夏休みに、元同級生と再会した。
聾学校時代、私と一番多くの時間を過ごし、指文字習得と文通を勧めてくれた相手であった。聾学校を卒業してからおよそ半年ぶりの再会だった。
彼女は、高校に入ってから時々手紙で、私に学校生活のことを書き送ってくれていた。実際に会った場でも、高校に入って早速できた彼氏のこと、学校生活のこと、勉強のことを楽しく語ってくれた。そんな彼女に対し、私は語るものを持っていなかった。貧相な高校生活であった。
きっと彼女の手話は、飛躍的に増え豊かになっていたに違いない。だが会話で手話を使った記憶はなく、使っていたとしても、私の目には入っていなかっただけなのだろう。
「(学校生活は)大丈夫?」と聞かれたが、私は「大丈夫」と答えた。
それは、条件反射的な返しであったし、自分の人生は自分で背負うしかないという決意表明でもあった。

彼女は「普通の高校がつらかったら聾学校高等部に戻ってきてもいいし」と言ってくれた。彼女ほど社交的ではない私を心配してくれたのだろう。
私は、うん、と答えた。
まだ高校生活は、2年半も残されていた。だが私が聾学校に転校することはあるまい、と心の中で思った。
トンネルの途中で、じゃあ聾学校に戻るか、ということはとても考えられなかった。トンネルを逆に戻り出口に一度戻るための方向転換にはとてつもないエネルギーが要ると分かっていた。その大きいエネルギーを使うより、日々消耗しつつも、とにかく前に一歩進むほうがはるかに楽だったからだ。ほぼ惰性であったろう。
仮に、聾学校に戻る選択肢が気軽に選べる環境であったとしても、私は戻らなかっただろう。体育大会で、休憩所に座りながらボーっと人の流れを観察していたように、高等聾学校でも似たような過ごし方をするだろうと思っていた。
そのまま私は一般高校に通い続け、卒業した。

ただ、聾学校時代全く使うことのなかった指文字は、思わぬところで役に立った。高校のとき仲良くしていた同級生が、会話の補助として時々指文字を使ってくれた。私のほうは、まだ十分に脳と手の回路がつながりきっておらず、使うことはほとんどなかったのだが。

どこにいても、自分の場所はここではないと感じていた。
同時に、自分の場所はここしかないのだろうとも思っていた。

高校卒業後、私は手話を覚えた。
ようやく、私の手と脳の回路はつながった。

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