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私は、聴こえる聴こえないを全く意識することなく遊んだ。子どもだけが持ちうる強さの世界に、私はいた。

小学1年生になった私は、放課後遊ぶ自由を得た。

学校が終わると、校庭に駆けて行った。
聾学校には、家が遠方で通えない等の児童生徒もいて、彼らたちは寄宿舎に入っていた。寄宿舎で寝泊まりをし、毎日聾学校まで通っていた。私たちのクラスは全員が通学生だった。ただ、みな家が別方向に離れていたので、学校で遊んでから帰宅するのがお互いに都合がよかった。バス通学をしているクラスメイトのバス時間まで、校庭で遊んだ。時には、バスを1本見送って、終了時刻を延長して遊んだ。

聾学校から帰宅すると、今度は近所の子どもたちと遊んだ。
毎日私は遊ぶのに忙しかった。放課後は、聾学校で同じ聴こえない子どもたちと遊び、帰宅後は、近所の聴こえる子どもたちと遊んだ。


私は、近所の子どもたちと遊ぶとき、自身の耳が聴こえないことを意識しなかった。まだ、私は自身の発音が何が通じて何が通じにくいかも分かっていなかった。そのため、自分が、発音のとき、通じやすい発音の言葉に言い換えることもなかった。私は思ったままをすぐに、自然なやり方で表出できた。

ある時私は、近所で一緒に遊んでいた子の1人に腹を立て、家に帰った。腹を立てた理由というのは、今思い出しても、幼稚で身勝手な理由なのだが、当時の自分は大真面目であった。
次の日も、その次の日も、その子の家に遊びに行かなかった。私は自分の家に引きこもっていた。さらに次の日、その子が私の家に謝りにきた。
私は「しぶしぶ」仲直りをした。そしてまたいつものように遊んだ。
1,2回だけだったが、私の家にクラスメイトが遊びにきて、そのまま、聴こえる子どもたちと聴こえない子どもたちが一緒に遊ぶこともあった。

一般的に考えれば、耳が聴こえない私のほうが「遊んでもらう」立場だったのだろうが、当時私はそんなことをつゆほども考えなかった。私たちは毎日顔を合わせて遊んで過ごした。この日々は変わることなく永遠に続くようにも感じられた。

小学校高学年あたりで、下校時刻が遅くなったり、習い事があったりして、次第に私たちは遊ばなくなった。それと同時期に、一般小学校との交流企画が始まった。

私の家は聾学校に近かったので、近所の子どもたちが通う小学校は、聾学校のすぐ近くにあった。交流先は、その小学校だった。聾学校の子どもたちはそこの小学校に行き、同学年のクラス訪問をし、自己紹介をすることになっていた。聾学校とは違って、縦一列になって座る子どもたちの、数十個の顔が一斉に自分を見つめる中での自己紹介はとても緊張した。

聾学校から来た私たちが順々に自己紹介をし、それぞれへの子どもたちの反応を見てみると、自分の発音がどれだけダメかということがよくわかった。時には、そのクラスに、放課後よく遊んだ子がいて、目が合うこともあった。だが、私はすぐに自分から眼をそらした。

そのクラスのなかで、私の自己紹介が聞き取れたのは、その子だけだっただろう。その子がどんな顔をしているのか見たくなかった。その子だけが分かるという事実は、そのクラスの中で、その子が悪い意味で目立つことになるだろうと思ったからだ。
放課後、家の近所で遊んだときには、耳が聴こえる、聴こえないを全く意識せずにいられたのに、一般小学校の教室内で顔を合わせると、悲しいほど果てしない距離を感じた。
聴こえる聴こえないの違いを感じ始めた頃だった。自分たちの違いを気にせずに遊べた「幸せな時代」は、気が付けば終わっていた。

一般中学校とも交流企画があった。この中学校も聾学校近くにあり、かつて一緒に遊んだ近所の子どもたちもそこの中学校に通っていた。ただ中学校との交流は、持久走大会を一緒にやったり、文化祭を見学しに行ったりという内容になった。もうクラスに行って、自己紹介をすることはなくなった。このことに、私はとてもほっとした。通じない発音で自己紹介をしなければならないことは、一つの公開処刑のように感じていたからだ。
一緒に遊んだ子供たちは、中学校のどこかにいたはずだ。
聾学校から見学または参加してきた私たちに気づいた子もいるかもしれないが、私のほうからは気づかなかった。聾学校とは違う人口密度の学校で、埋もれてしまって、私からは見えなかった。仮に気づいたとしても、私からは声をかけなかっただろうし、向こうもかけてこなかったのではないかという気がしている。

高校生になり、私はバイトを始めた。偶然、そのバイト先で、よく遊んでいた子の1人と再会した。バイト帰りの夜道、私は嬉しくて、色々話しかけた。まったく通じなかった。何度も聞き返してきた。
今思うと本当に不思議だ。
子どもの頃はなぜあんなに、何不自由なく通じたのだろう。

大人になり、人付き合いの世界は深くなり、かつ、広がった。
しかし、子供の頃に遊んだような、付き合いはもうできない。

自身の「遊び」の記憶を振り返るとき、当時は気づかなかった、自身の特権を思う。あれは、子どもだけが持ちうる特権であった。私も、近所の子どもたちも、大人からは覗い知れない強さがあった。

子どもは、大人が思っている以上に、自由で、力強い。
むしろ、大人よりずっと強い。

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