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5.今を輝く少女たちに出会う日々-お姉ちゃんとの時間

 この話のうち、3割くらいはフィクションです。


 昨日会った少女の無変化性に安堵した私だからなのか、この街に訪れた時、私は想像通りの安堵を抱えていた。
 雑踏の街、横浜。ドブとゴミと吐瀉物の街。高校時代にこの街で過ごした三年間は昨日のように思い出せる。ただ駅と高校を往復し続けただけだが、その中にはほろ苦い思い出も混じりこんでいるから。恐らく、美化も含んでのことだが、私鉄から五番街に続く道にあった立ち食い蕎麦屋とたい焼き屋はあいも変わらず学生の味方のようだ。
 全く、学校もないのに制服デートか。なんて口に出してはいけないから隣できょろきょろと周囲を見渡す白ワンピースの場違い少女に私は流し目を作って伝えておく。
 「店は私が決めていいよね?」
 「もちろん、アンタの方がこの街に詳しいしさ」
 「はっは。外食が出来るほどにお小遣いは貰ってなかったからほぼ直観だけど。まー我慢してよ」
 馬鹿みたいに暑いコンクリートジャングルに悶えた私は首元をバタバタとあおぎながら答えてあげる。あの頃、足りなかったのは沢山あった。お金に勇気に人望に情報。そうした類のものは、その半分くらいは大人になって情け交じりに貰えるけれども、手に入る頃にはその価値は殆ど消えかけていたんだ。
 昔好きだった男の子の苗字と同じ読みのうどん屋さんの前を通り過ぎる。一目惚れだったあの人は今、何しているんだろう。今の私を見て、少しでも、羨ましいと思ってくれる程に立派になれたんだろうか。
 一店舗目はお盆の時期にビュッフェ専門店になると知らなかったから、私は踵を返して次の店舗を探した。私の背を追う白ワンピは「お金の心配だったらアタシ持ちだし気にしないでってー」と言っていたけれども、階段を駆け上がりながらお腹を撫でれば、私がさっさとここからおさらばしたい理由はわかってくれるはずだ。変わらずとも、誰かが許してくれる程に価値がある人間の言葉は、私の表情を歪ませてくれるものだ。
 結局のところ、私達は隣の通りの少しオシャレなイタリアンへと入り込んでいた。つい、傷心を引き摺ってしまうのも私らしい。あのビュッフェの店では、安っぽいミートソース入りのマカロニチーズを吐きそうになる程に食べて、幼い妹がいる男の子が、私の友達が口をつけたヨーグルトを何の抵抗もなく喰らったことに悲鳴を上げた店だった。ついでに言うと、フライドチキンが山盛りの皿を空にしないとお代わりをくれないケチなとこだった。そんな店でも、社会人になってから一人一万円の会費を取られた高級なフレンチで過ごした時間よりも楽しかった気がする。
 
 中は思ったよりかは人は少なく、気を使ってくれたバイトのお兄さんは四人掛けのテーブルに私達を案内してくれた。封鎖されたテラス席の向こうには通りを歩く人影が写っていた。窓際に座った紳士が、コーヒーを片手にその影をじっと追っていた。
 「私はビスマルク」
 「アタシは……ミートスペシャル!」
 「子供か」
 「あぁ、心はいつまでも子供で居たいものだし」
 「くだらな」
 向かいの席の女性、私のお姉ちゃんは当然だけどもう子供なんかじゃない。私よりも二つ上だから二十八歳だったかな。もう少しで三十歳だ。それにしても、高校生の頃は三十歳になるなんて想像もつかなかった。さらに言うと、その年に近づいているにもかかわらず、未だ自分の生き方に確証が得られないだなんて、想像さえもつかなかったけれど。
 お姉ちゃんは、昔から頭が良かった。私が運動できたから勉強を頑張ったって言っているけれど、私の能力なんて所詮、県大会にも通用しない程度のものだ。悔しいとも思わない程に圧倒的な力を見せつけられて(さっさと引退したいな)と思う頃には、お姉ちゃんは狂人のように勉強を続けていた。私がその異常さに気が付く頃には、国で二番目の大学に入学していた。それでも私が、下から数えた方が早い私学に入学しても、お姉ちゃんはいつでも偉ぶることなく下らない話ばかりしている。だから普段は、寂しくなんてならない。寂しくなるのはやっぱり、隠しても隠しきれない能力の差を示された時だけ。

 「やっぱりアタシ、学ぶことが好きなんだと思う。中小企業診断士の試験、とりあえず今受けた分は自己採点では合格ラインだし」
 「へー、すごいね」
 「別に士業をしたいわけじゃないけどね。本業はITだしさ」
 「私はさっさと引退したい。クソみたいな仕事だし」
 私の仕事の必要性を無理やりひねり出すこともできる。上流工程で必要な仕事だとか、サプライヤーとの取引で会社に損害を与えることなく円滑に進めるために必要な仕事だとか。でも、どう頑張って考えても、私が高校時代に夢見ていた憧れの仕事とはまるで違うことを知らしめられれば、徐々に心は腐り始めるものだ。
 「あはは、前職の私みたい。あの企業も典型的な日本企業だし。上からの命令に従って仕事をするだけ。組織のための仕事。自己成長性皆無。アタシじゃなくても回る仕事。そういったもんに時間を費やすのにずっと、うんざりしてたからさ。アンタも転職してみる?」
 「馬鹿ね。在宅ワークで寝ていても金が入ってくる最高の仕事よ。生き延びるのには最高の仕事よ」
 私の真意を理解したお姉ちゃんはピサを片手にあはは、と笑う。ただ生き延びるだけならば、日本企業は最高だ!というのが私達の見解だ。代わりに、やりたいことなど何もできやしない。飼いならされて牙を抜かれて、どこの組織にも役に立てない豚を生み出し、窓際へと追いやられて定年間際で首を切られる素敵な一生。言い換えれば、やりたいことなど何もない、ただ呼吸をするだけのモチヅキマコトという生命体には、これ以上に素晴らしい居場所はない。
 けれども、お姉ちゃんは違った。お姉ちゃんは二十代で年収一千万円と役職を貰うよりもやりがいを求めた狂人だ。今だってほら、意味不明な言葉ばかり述べている。
 「学べば、見てて来なかったものが見えてくる。それが楽しいんだよ。スーパーでどうして精肉コーナーがお店の奥にあるのかとか、百貨店の利益構造とか、街がどうやって成り立って不動産屋が儲かるのか。ああ、従姉妹のとこの財務表も観たい」
 明日のお昼ご飯もまともに決められない人間には耳が痛い話だ。
 「さすが外資ね。しくじればクビになる世界は厳しいわね」
 「いや、これは趣味だし。私は自分の能力をものにして独立したいんだよ。自分の能力を最大限生かして、誰かの役に立ってみたいの」
 「コンサルとか?」
 「コンサルもいいねぇ。でも、どんなのが良いんだろ。アタシの好きなものは……」
 つらつらと言葉を続けるお姉ちゃんには悪いけれども、私はまともに話を聞くほどの余裕がなかった。聞けば聞くほど、自分の将来が不安になる。いや、今の企業にしがみつけば生き延びることは出来けれども。目前でウキウキで自分の長所を話す女のように、人生に活路を見出していない私にとっては、恐らくこの感情を抱えたまま墓に入る苦悩を理解できないような気がして。

 私とお姉ちゃんは、正反対だ。頭の良さもそうだけど、最も違うのは人間に対する態度。お姉ちゃんも私も、他人は理解できないことを知り尽くしている。けれども、お姉ちゃんはだからこそ人と関わりを持ち、自分の持つ人懐っこさで懐に入るのが得意なんだ、と自称していた。
 私は、大半の人間に対して憎悪を抱いているから。映画「ジョーカー」の主人公の言葉はよくわかる。「たとえ私が道で倒れていても踏み越えていくだけだろ」という言葉だ。私には、私の理解者が恐ろしく少ないし、私自身さえ私を嫌っているからこそ、誰も信用に値しない気がするのだ。あるのは取引だけだ。もっとも単純なのは金。次に利用価値。真の愛などこの世界に存在するのか。あるなら、それが如何にして嘘であるかを論破してやりたいタイプだから。

 「話長い。エンジニアっぽい」
 「わかる。エンジニアはメカニズムにばかり着目して、顧客が何を聞きたいかを忘れる生き物だし」
 「ウチの取引先にも同じこと言っておいて。あいつらはどうして結論を先に言わない?美しい資料を作る時間あるなら、テストの結果を寄越せって」
 「それもあるあるよ。資料のための資料。幹部様の質問には百パーセント答えられないと降格!って」
 「頭に鉛玉を食らえば私と同じく死ぬくせに、何を偉そうなんだか、アイツら」
 「はっは。それが、資本主義ってもんなの。真の価値というのは生み出した虚構の組織構造のどこかに紛れて消えてしまったのさ」
 あの連中は私と同じく、平等に価値がないくせに。とは言ったところで元ネタが通じないだろうから黙っておいた。

 私もお姉ちゃんもピザを一枚食べ終わる頃、お姉ちゃんは私にコーヒーを勧めてくれた。ご丁寧にどうも、と微笑みながらお値段がお高いカフェラテを容赦なく頼んだ。そんな図太い私の態度にも、お姉ちゃんは文句の一つも言わずに店員さんにオーダーを伝えている。人の悪意にはめっぽう気が付かないタイプだろうな、と感じた途端、なんだかそれってすごく羨ましい気がした。
 同時に、私は寂しさも覚えたのだけれども、少し大人になった私はカフェラテを口にする動作でかき消すことで、表情をニュートラルへと戻すことが出来たのだ。

 お姉ちゃんには、恋人がいるらしい。
 知ったのは数か月前だった。突如として知らされたから、私はあの時、酷い態度を取った気がする。
 お姉ちゃんばっかりずるい、とははっきりは言わなかったけれども、きっと、頭のいいお姉ちゃんはすぐに察したのだろう。
 その時から二度とそれに関連した話をすることはなかったから。

 グラスに指を掛ける。長い髪をかき上げる。そんな小さな所作の一つ一つに、格の違いを知らしめられるようで。
 けれどもこれは、一方向的な劣等感だから、口にすることも憚られる。
 私はお姉ちゃんの、馬鹿で可愛い妹以上のものではない。だから、そこに上下なんてないんだよ、ってきっと言うんだろうけど、そんな態度が取れる時点で、お姉ちゃんは私を遥か後方へと置いてきたんだよ、と文句を言いたくなってしまう。
 ひねくれた私はきっと「強者の余裕のつもり?私を想うならば、今すぐ口を噤んで、ただ私の不幸を泣いてよ」と吐き捨てる気がする。

 きっと、お姉ちゃんの恋人は、堅物だろうね。
 だって、あんなつまらない話に付き合ってくれるのは、同じタイプじゃないと続かないでしょ。だから、きっと彼も話がつまらない。ああ、清々する。
 けれども、姿かたちも見えないその人は、丸っこい顔立ちをしたオシャレに疎いお姉ちゃんを唯一の人として認めたんだ。
 全然、嫉妬するわけじゃないし。お姉ちゃんもいい年なんだから、祝わないと。そう、精一杯祝って。……電報で済ませようか。

 耐え難いのは、お姉ちゃんが結婚した時、私は望月家に不要な存在となることだ。お父さんも、お母さんも、そんなこと思わないことはわかっている。わかっているけど。誰かに愛されたお姉ちゃんと、誰にも愛されなかった私を見て、何かを感じてしまうことは、両親も人間である以上は仕方ないけれども。
 血を繋げないこと。愛される素質がないこと。それらを前時代的だと笑えるほどに私は強い心を持ち合わせていない。
 だから、お姉ちゃんは私と同じ不幸でいて欲しかった。きっとそう伝えたならば、私達の関係はここで終わるんだろうなと思った。

 相変わらず、お姉ちゃんの話は延々と続いていた。私の目はどんな輝きをしていたのかを知るのが怖かった。内面は誰にも言わない。誰にも言えない。家族でさえ自己価値の喪失に影響していることなど、理解されないから。会話も大して理解していないと知ったら、不出来な妹だと失望するのだろうか。いや、お姉ちゃんは絶対しないな。馬鹿だから。馬鹿だから、発言が、寛容さが、存在が、私を苦しめていることも理解もせずに。

 椅子に深くもたれ、いつものように二つに結んだ髪を撫でてみる。お姉ちゃんは「変わらないね、その髪だけは」と微笑みを浮かべていた。お姉ちゃんだって、変わらないよ。……見かけは変わったけれど。ホントはそう言いたかったけれど、私はただぶっきらぼうに「お店が混んできたから早く出よう」と伝えて立ち上がっていた。

 なんと不甲斐なく、恩知らずな妹なんだろうか。お会計を進めるお姉ちゃんのまるっこい背中を見つめながら私は自己嫌悪に浸りかけていた。けれども、そんな無為な自傷で心満たすよりも、道義的に伝えないといけない言葉があったから、私は会計を終えて振り返るお姉ちゃんに目を逸らしながらただ一言伝えてみる。
 「ありがと」
 いつも、は心の中で呟いてみた。だから、天才的なお姉ちゃんでも、お会計を任せた事へのお礼だと確信するはずだ。
 「どういたしまして」
 ……ああ、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだ。昔から癖になっている目を細める素振り。私が嘘をついたり、何かを隠したりしたらいつもお姉ちゃんはこんな目をするんだ。
 やっぱり、勝てないな、お姉ちゃんには。
 お店から逃げ出した先の通りの日差しは、お店に入る前よりも強く差し込んでいるような気がする。それに乗じて私は目を閉じて、私は気持ちを整えてからただ一言、お姉ちゃんに思いっきり本音を漏らした。
 「ばーか!」
 「は?いきなり何?」
 これくらいしないと、私は感情を隠せないし、露わにできないから。
 こんな不器用な妹でごめんなさいとは絶対に言わない。代わりに私は手を後ろで組んだままあてもなく歩き始めてみる。お姉ちゃんは、そんな奔放な妹の背中を追っている。
 この時間こそが、もしかすると私なりに唯一、心が満たされる時間なのかな。
 心も足先も行ったり来たり。お姉ちゃんを振り回すためだけに歩き続けて三千歩。心がこの空みたいに澄み切る日はまだ来ないけれども、それまでは今日みたいに散々振り回してやる、と心に誓ってから、私はドブ川を跨ぐ橋を大股で渡ってみるのだった。

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