書くことと話すこと
このところ、本業の方より頻繁に記事を書いている。
活発に記事を書いて、こちらからスキとかフォローとかマメにすれば、読み手の皆さんもギブアンドテイクで返してくれる、そういう雰囲気は感じる。
中身がどうかとか、有意義なことを書いているかどうかなんて正直二の次の感すらある。
中には隅々まで内容を読んだ上でいいと思ってくれる真摯な人も間違いなくいるだろうけど、少なくとも自分は割とタイトルの面白さとトップ写真の「映え」に吸い寄せられる浅い人だ。だからなんとなくわかる。
人は見た目が9割。やっぱり「つかみ」は大事。
…あ、ちゃんと中身は読んでますよ。
皆さんの文章読むと、こういう表現や伝え方があるのか、とか、
世の中こんなに面白いことがたくさんあるのか、と、いい歳して素直にそう思う。
誰もが行ったことのない場所に足を運んだり、絶品に美味しい料理を食べたりという、何か映える人生の冒険をしてるわけでもない、
取り立てて優れた文章の技量や人並外れた感性で読む人に爪痕を残すような才能もない、
ただ1日の終わりにちょいと発泡酒の缶を傾け、何かの本を斜めに読みながら、色々なことが頭に浮かんでは消えていくだけの凡人が書けることってなんだろう。
たぶん自分が本音でそう思ったこと以上はいくら振っても出てこない。
読んで面白いかどうかは知らない。
というか、別に面白いと思って頂こうなんてそんなことも狙わない。
10代の頃だったか、話の上手い人がとにかく羨ましかった時期がある。
初対面の誰とでも気持ちのいい会話ができたり、場を沸かせて輪の中心にいたり。
対する自分は、話すことはどちらかといえば苦手だった。
なぜ苦手だったのか、今でもよくわからない。
社会人になった今、それでも多少はマシになったと勝手に思いつつ、
今もそんなに得意ではないし、気の利いた言葉をいうのはなんか嘘ついてるような気がしてしまう。
知り合い曰く、どうも自分の話は直球を放りすぎてるらしい。
思い当たる節はまあまあある。
そんなに気の長い方ではない、思ったことをそのまま放ってしまい「言わなきゃよかった」と後悔したり、相手が怒ったり驚かせてしまったりということがままあった。
歳をとるにつれ、自ずと口数は減ったような気がする。
話の旨さに憧れつつ、一方で饒舌であることがよくないことのように感じていた節もある。
それに比べると、もともと文章を書くという作業は得意かどうかはわからないが好きな方だ。
といっても人が作った文章を読んだり、何か決められたフォーマットに従って書くとか、命じられて書くことはあまり好きではない。
ただ、タイピングでもスマホでも、その時なんとなく思ったことを一行、二行と書き出してみて、それを順序で入れ替えて、行間を埋めたり削ったりしているうちに、なんとなくそれっぽいものは出来上がってくる。
書く作業は、この試行錯誤と「タメ」ができる。この行ったり来たり自体が面白い。
話し言葉はこういうことができない。
口から出たら覆水盆に返らず、相手に届けば取り消せない。
書く作業に比べて、その時の気持ちを嘘なく伝えてしまう。
でも、そうすると文字に書いた文章は嘘なのか?
後から思い返したり、それまでの自分の中にあったものと結びついたり、積み木を組んでは壊してをやっているうちに、いっときのブレに踊らされない本音も出てくることがあるんじゃないか、と思う。
人に読んでもらおうとか、よく思ってもらおうとか、そんなこと考えてしまうと余計に盛ったり、飾ったりしてしまうことが多い。仕事でやってることは、どうも人からの見え方を気にしすぎて本来のことができなくなってると思うときもよくある。
せめて自分がすすんでするものは、削ぎ落として無駄を取り除いて、少ない言葉でも本音を伝えるような、
そういう言葉が書いたり、話したりできないものかなあと考える。
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