生きる呪いもダミーでギミー

人生のある瞬間に、人は普遍的な問いかけを誰か、あるいは何かに求めてしまう。

例えば、犬が笑って冒険したりする類の昔のコント番組の人気コーナーでも【生きてるって何だろ、生きてるってなぁに】という問いがあり、北海道出身の国民的歌手(むしろ県民的歌手が天下とったなら県民的というべきでは?)である某氏の曲では【どうして生きているの?君は僕に尋ねるけど)というラインがある。

アイデンティティを欲しがるのは、ホルモンバランスの迷走か、遺伝子の悪戯なのかはわからないが、ある時期にそういったことを考えない人はすくないのではないだろうか。少なくとも私は多数派のうちの1人であった。

性交渉の後の賢者タイムは男性にのみ訪れると思われがちだが、情事の後のみならず成就ののちの倦怠感や、ふと魔が訪れる数秒のちのタナトスの誘いなど、生きているという実感があった後には人はモノを考えさせられてしまうのではないか。

そして、それが顕著なのが生殖と悦楽という呪いを掛けられた性交渉の後に起きやすいというわけだ。思えば遺伝子と肉体成熟がなされる思春期に自我の芽生えが訪れるのもそういう理屈であろうか?


現在の私の考えは、なんで生きているの?という問いに対しては心臓が動いて呼吸できていて、時間がまだ許されているからという、つまんねーなーという即物的な答えしかない。

もっと普遍的な、飯食ったら太るのうざいよねくらいの共感を得やすい真理が見つかれば、あたらしい宗教でも作りたいのだけれど、結局のところは本当に生きる意味とかいう忌みを抱いている人は自分で見つけるしかないのよな。

普遍的な問いかけでありながら、解答が多数、ごまんとあり、さらにはあたえられることではしっくりせずに、自分で自分にインストールしなければならないプログラムが【生きる意味】みたいなものなんだろう。

守るべき家族や新しい命、推しのライブ、美食や遊興、虚無の果ての遊戯だの、理由なんてなんでもいいはずなのに呪いの渦中ではそれが間違いのように思ってしまう。

死にたがりで生きたがりな細胞抱えて、くっそくだらない情念抱えて生きるなら、もっとよこせよと呪いに対して呪詛を返すくらいの魂で生きていきたいね。

なんで生きているの?生きているからだよバーカくらいのさ。

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