それぞれの山を登る

SNSで自称読書好きの愛読書が○○みたいな揶揄を見たけれども、博覧強記に憧れはするが、さりとて読書量や読んでいる本のセンスで人を見下すマウンティングが横行するのは寒々しいなと感じてしまう。

これは音楽や収集癖でも同じであり、根本的に自分の好奇心や探究から始まったものが、比較や格付けによって当初の愛情から承認欲求や他人との差異をつけるための目的のための目的に化てしまう状況に繋がりやすいと思う。

そもそも冒頭の揶揄は、半可通な知ったふうな口を叩くためのディスでもあるのだろうけれど、一定数以上の本を読まなければ読書好きと呼べないなんてことはないだろうし、そのジャッジを他者ができるのかといえば怪しいものではないか。

インプットとアウトプットの関係性はあるだろうけれど、生涯で一冊の料理本しか読まなかった人間が多くの人を魅了する恋愛大河小説を書き下ろすなんてこともあるだろうし、逆に何万冊を読破しても、そこから何も得られず、作家になれなかった人なんてのもいるだろう。


競争や切磋琢磨、あるいは嫉妬や強欲から生み出される芸術やエンターテイメント。美味しい料理などの創作物が生まれることもある。マウンティングを避けることで、ぬるいお湯に甘え浸りて腐り落ちるものもあるのかもしれない。

が、初手から誰かより優位性を保つべく目的化され、それが果たされた時に生まれる他人への侮蔑などは、己の魂も他人への関わり方も濁らせるのではなかろうか。まあそれも本人の自由ではあるが、その類の人とはあまり関わりたくない。

が、偉そうにこんなことを書いている自分も無意識にそうなっている可能性は大いにあり、冒頭のような揶揄に対して過敏になるのは、生まれ持った被害妄想のみならず、そういう行動をする人への近親憎悪なのではないかとも考えている。

ただ、好きな分野の話をしているだけで、どこから矢が飛んでくるかわからない状況は殺伐としており物騒だが、その無邪気さが周囲を粟立たせたり、気持ちを揺らしてしまうことは、ままあることだからな、、、、。

いずれにせよ、揶揄のために誰かの好きを否定するのはとてもつまらない行為だし、せっかく音楽を聴いたり本を読むなら心底楽しんで、次の集会で推察や分析をしたらいい。

何を読んでも、どれを聴いても根本に好きがないとつまらないし、ましてや誰かと比べて自分の方がなんてマウントは自分の好きを汚してしまうんじゃないかな。

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