ラフレシアなきみ
以前、僕が付き合っていた彼女はこういった。
「スープの冷めない距離なんて言葉でお互いの距離を詰める事を怖がっている癖に、それを認めようとしないのは傲慢よね」と
僕は猫舌だから、冷めたスープでもビシソワーズ気分で戴いてしまえるから別にいいんだけどなと思いながら、彼女の肩を抱いて、それからあたりまえのようにキスをした。
結局のところ、スープが冷めるより明らかな分かりやすさで気分が醒めてしまった彼女は僕に愛想がつきて別の彼氏をさっさと作って部屋を出て行ったけれど、あの一言はなるほどなと今でも覚えている。
距離感。ハリネズミのジレンマの例を挙げるまでもなく、コミュニケーションの本質は距離感なのだろう。見詰め合って世界が変わるなんて事を信じていられるほど若くもないけれど、好きな気持ちはいつか慣れや日常の中に飲み込まれてしまうんだよという先輩のアドバイスに素直に頷けるほど大人でもない僕は、この先どうなるんだろうなと思っていた。
しかし天気が変わりやすいように、転機なんてのもコロコロ転がり込んでくることもある。まあ僕の場合は転がり込んできたのは転機というよりも、一人の女性だったのだが。
仕事を終えてふらふらになってようやく家に帰ってきた僕は、アロエ味のチューハイをちびちび飲みながら、それなりに大人なある種の映像をぼんやりと眺めていた。時計の針は24時を回っていたから、この時間に見るにはふさわしい映像であるとは思うものだ。
まあまあ気分が高まってきたので、なにかしらそわそわし始めて、お代わりのチューハイを取りに冷蔵庫へ行こうと立ち上がりかけた瞬間、玄関のドアにバコーンと何かが当たる音がした。
なんだろうと思い、そろそろと玄関へ向かい、のぞき窓から外を見てみると、そこにはフリルのついた赤い服をきた女子が倒れていた。わ、なんだこれ、トラブルか?トイレのトラブル8000円なら電話番号知っているんだが、これってやはり警察に電話すべきか。というか、まずは安否を確かめねば。
そう思って、ゆっくりとドアを開けると、ドアに寄りかかっていたその子は、ずるりとところてんが押し出されるようにアパートの床に倒れ込んだ。ぬるりと音がするような鮮やかなすべり具合だった。
わ、なんだこれ。安否を確かめようと、顔を覗き込んだ僕はそこに漂うアルコホルの香りに顔をしかめ、同時にとんでもない光景を見た。
酔っ払って寝ている女性に、下心なく声を掛けられるほど僕は人畜無害ではないが、あからさまに頬にバカボンのようなぐるぐる巻きの落書きをされている女性に対してまでそれを発揮できるほどタフではない。
なんなんだろうねえこれはと思いつつも僕は彼女の肩をゆすりながらつぶやいた。
「ねえ、こんなところで寝ると死ぬよ。いろいろな意味で。起きてその顔を見たら、寝ている間の幸せな気分もふっ飛んで死にたくなるかもしれないし」
まあ聞こえるわけないなこれだけ酔っていればと思いつつも、あまりの出来事にそうつぶやかざるをえない。
「ふむ。それもそうね。眠りは麻薬と歌ったバンドもいたけれど、禁断症状を起こすほど眠るのは確かに良くないわね」
飛び起きるという言葉があるけれど、起きた女性を目の前に自分が飛び退くというのはなんと言うのか。というか、これは何の罠だ。警察のおとり捜査よりも悪質なドッキリか何かか。
「あ、これ、何かの罠?」
素直に聞いて答えるはずもないなと思いつつ、とりあえず無難な質問としてはこれくらいしか思いつかない。
「罠っていうか、ほらなんていうのかな。眠くて眠くてたまらないんだけど、身体は眠っていても意識は起きているって事あるでしょ?そんな感じよ。なんていうんだけっかけ?ユーリダリツ?」
「なんだその首位打者を目指す野球選手垂涎のおまけ打率みたいな名前は。それを言うなら幽体離脱だろう。ってなんで初対面のしかも顔になるとをくっつけたみたいな状態の女の子にこんなツッコミしているんだっつうの」
彼女はとろんとした目つきで僕を見ながら「ちょっと何いってるかわからない」とつぶやいた。
サンドウィッチマンかよ!と思うと同時に、お前が言うなという気持ちがむらむらと盛り上がってきた。いや、別の意味のむらむらは全くないよ?だってバカボンメイクだもの。たかがバカボン、されどバカボン。
「ていうかさ、君このアパートの住人なの?ここは301、だから間違っているんじゃない?」
勤めて冷静を装い、僕はそう彼女に問うた。
「あん?301?さわい?さわいさんですか貴方は。そうですか、わたくし、吉田芽衣と申します。ではでは」
って、また眠るんかい!ちなみになんだその326みたいな呼び方は、僕はさわいではなく熊谷だ。いや、そんな個人情報どうでもいいし、ありえないし吉田さん。
「あ、あの吉田さん、ここね、僕の部屋の前なんで、眠るなら自分の部屋で寝てもらえます?」
「むにぃ?吉田なんてなれなれしく呼ばないで、メイメイって呼んで」
圧倒的にそっちの方がなれなれしいと思う僕はおかしいのでしょうか先生。先生、これってどんな方程式からなりたつ問題ですか?だいたい、何その付き合って三日目くらいのカップルが恥ずかしげもなくプリクラを取る時に落書き機能で書いてしまう感じの気持ち悪いニュアンス。
「メイメイさん、あの、たぶん酔っ払ってらっしゃるから分からないと思うんですけど、ここ、あなたの部屋じゃないんですよ。いま水持ってくるんで、酔いを醒ましてから帰ってください。こんな時間に女性を部屋に入れるとちょっといろいろ問題だし」
彼女はその言葉を聞くと、ふいに、しゃっきりとして「水よりも牛乳を所望したい」と言った。
武士!ねえ、これは武士なの?平成ノブシコブシなの?
一々突っ込むのが面倒だったので、僕は部屋に入り冷蔵庫へ戻って牛乳をスヌーピーのマグカップに注いで彼女の元へ戻った。
「はいどうぞ」
「かたじけない」
ねえ、やっぱり武士?むしろ【もののふ】と読むレベルで武士?
子猫がミルクを飲むようにゴクリゴクリと彼女はミルクを飲み干していった。が、途中で器官のどこかへ入ってしまったのか、ゲフンゲフンと咳をしながらミルクを口からこぼしてしまった。俗にこれを器官inと呼ぶ。多分。
「ああ、一気に飲むから・・・。大丈夫?」
僕は彼女の背中をさすってあげながら、ねえこれって何フラグ?ていうかこれ訴えられたらセクハラで負けませんよね?善意ですよね?無意識的な善意の押し付けがときに人を傷つけるけど、これってセーフですよね?と自分に言い訳しつつ彼女の背中の骨の感触を感じながら思った。変態?うん、まあそれは否定できなくもないはずだ。
「だ、だいじょうぶれふ。だいじょうぶでつ」
いやいや、言い直してるつもりが余計に酷くなってるし、何この萌えッ子。しかも、口元から流れ出したミルクが、胸元にかけてしとしと降るでしょうというような欲情天気予報。なおかつ、意外にその山脈は立派ではないですか。つうか、これ安いアイドルのイメージヴィデオじゃないんだからさあ。でも顔にはバカボンメイク。ああ無常。
「ああ、とりあえず、もうさ、部屋に入っていいから、顔洗ってシャワー浴びてきなよ。そんだけ酔ってたら自分の部屋の鍵を明けるのもしんどいだろうし」
彼女は生き血をすすった後の吸血鬼が腕で口元を拭うようにミルクをごしごしと服で拭い、それから「お借りします」と僕の部屋にゆらりと入ってきた。完全にスタジオさんお返ししますの音階だった。
そこで僕は自分の失態に気付いた。
ああああ、大人の映像つけっぱなし!!!!社会の窓をパックマンと呼ぶ僕だが、心のドアをアイムノッキンオンユアドア!
わーと焦ったものの、時既に遅し、彼女はその映像をぼぅとみながら、にんまりと笑った。なにこの天使のような悪魔の笑顔・・・。
「トイレ借ります。あ、ていうかトイレ使いたいです?今使いたいです?」
「ね、君本当に酔っている?これ誰か僕の友人の仕組んだ罠とかじゃないよね?」
「あらゆる出会いは何者かが因果律を結んで開いてで遊んでいる結果なのれす。ではお先に失礼」
意味がわからないが、わからないなりに彼女はトイレに入った。束の間、部屋が静まり、次の瞬間、ナイアガラの滝を想起させるなにがしかの音が響きはじめた。これがIT'S AUTOMATICとかいえる気軽さがあればねえ・・・。
さしあたって、僕はこの事態を収拾すべく、浴室に入ってタオルをお湯で濡らし、それから近所のコンビニにメイク落としを買いにでかけた。
メイク落としなんて、どれを買えばいいのかわからないし、残念ながら僕には女装の趣味はないのでわからなかったから、とりあえず一番値段が高いものを選んで買って部屋に戻った。ついでに僕のチューハイのお代わりとウーロン茶も。
すぐに帰るつもりだったが、思いのほかメイク落しを選ぶのに時間が掛かってしまい、ああ彼女は一人で大丈夫であろうかと不安だった。いつもの癖で、鍵をかけずに出かけてしまったのだ。
早足で深夜コンビニの袋を抱える男など怪しさの塊であろうが、違う、これは優しさの塊なのだ。自己満足に過ぎぬけれど、優しさの塊なのだ、半分はバファリンに分け与えても、まだあまるほどのやさしさ。まあこういってしまうとやさしさもやらしさだけど、、、。
汗だくで早歩きし、ようやく部屋の前に着いてドアを開けると、彼女はぼんやりと僕の部屋のテレビを見ていたが、僕がドアを開けるのと、ほぼ同時にこちらを向いて彼女は言った。
「あ、おかえりなさい」
「た、ただいま」
何気なく返してしまったけど、おかえりとただいまをイソジンのCM以外でみたのって久しぶり。いつ以来だろうかこんなシュチュエーション。
「これ、とりあえずどれがいいかわからなかったから、買ってきてみた。良かったら使って、タオルも蒸してあるから、さすがにシャワーまで人の家で使うの嫌だろうからさ」
「あ、そんな、い、いえ、あの、すいません・・・」
この劇的ビフォア・アフター具合はやらせなのか、やらせなのか。人は気持ちを吐き出すことで楽になれることはあるけれど、彼女の場合は固形物的なものを吐き出すことによってここまで変化が訪れるものなのか。ああアルコホルってやはり魔物なのね・・・。そう思いつつ僕はこういった。
「いや、いいよ。てかさ、気分が少し良くなったならこれ飲んで」
僕は彼女にメイク落しとウーロン茶を渡し、僕はこっちにいるから、良かったらシャワーも使っていいよと行って部屋へ戻った。彼女はきょろきょろと僕の方を何度も振り返っていたが、意を決したようにぺこりと頭を下げて浴室へ向かった。
【あっ、そこ、そこは駄目ー】
本当だよ!そこでそれ流れてちゃ駄目でしょ。何で止めていかなかったかな僕はぁぁぁっぁぁぁっぁぁ!
しかるべく冷静さでリモコンを持ち、停止ボタンを押して溜息をつく。なにこの状況。そうか、あの彼女のぎこちなさは具合がまだ悪かったんじゃなくてこれのせいか。うん、セクハラ裁判、訴えられたら敗訴決定。てか、僕がいない間、ずっとコレ流れっぱなしかよ。よろしくてよ、止めてくださってもよろしくてよ貴女ぁ。
そんな罪の意識と罪を背負う予感に怯えながら肩を震わせ、二十分ほどしてから、彼女は部屋に戻ってきた。大人の映像について、謝罪と弁解をしようと僕が振り返ったその瞬間。
「あ・・・」
僕は言葉を失っていた。鴉羽を思わせる漆黒の艶やかな髪と、ほんのり熱で染まった頬。さっきまでバカボンメイクが施されていた(自主的かどうかは知らんし、知りたくも無い)顔の下には、切れ長の目と、細い鼻がすっと現れていた。メイク一つで女性は化けるというが、これは化けるってレベルではない。
少女漫画の鉄則として、主人公は遅刻しそうな朝にパンを咥えて走っていく。そして曲がり角で転校生徒ぶつかってキスをしてしまったりする。それと並ぶ王道として、眼鏡ッ子が眼鏡を外したら美人でしたというおめでたいエピソードがあって、いつもそれを僕は鼻で笑ったのだが、その都市伝説が今目の前に。なんというイメージオアリアル。
「あ、シャワーありがとうございました。あらためまして、わ、わたし、303の吉田と言います。本当にご迷惑をおかけしてしまって・・・。あの、なんとお詫びしていいか・・」
「メイメイ、それはね」
「め、メイメイって、なな、なんであたしのあだ名知っているんですか」
途端に彼女の顔が鮮やかに朱色に染まる。しかさは、なんという被害者認定。違う、断じて僕は無実だ。確かに褒められた生き方はしてきていないが、え、冤罪が生まれてしまう。
「いや、さっき自分でそう呼べって・・・」
「あ、あら、そうだったんですか。もうあたしったら」
うん、見事な昭和のリアクションですね。完璧。惜しむらくは表情が固い。笑って笑って、、、頼むから、、、。
「や、それはそれとして、少しは酔い醒めた?具合悪くない?」
やや強引に僕は話を変える。
「は、は、は、はい、大丈夫です。お、お酒は強い方なので・・・」
どの口がいう貴様ァッ!!それで強かったら世間の酒造メーカーは倒産してしまうわい。という心の奥底からのツッコミを堪えて僕はふぅっと息を吐き出した。
「とりあえずさ、もう夜中だし、自分の部屋でゆっくり休んだ方がいいよね。送っていくって言いたいところだけど、隣の隣だったら、かえって不審者だからさ」
「は、はい。申し訳ありません。このお礼は後日、必ずや・・・」
あ、やっぱり武士っぽいなこのコ。やっぱり遠い過去からタイムリープとかしてない?。
「そんなんいいから、早く帰って暖かくしてゆっくり休んで、なんもお構いできずにごめんね」
「いえ。本当にすいません。では・・」
彼女はぺこりと頭を下げると、脱兎のごとく部屋を出て行った。ああ、なんだかんだわりと面白かったな。顔も動きも小動物みたいだったしと思いつつ、僕は疲れた体で部屋を片付け、眠る準備をした。こんなに、やれやれという単語が似合う日もそうないだろう。
翌日の夜、僕が仕事から帰ってくると、部屋の前の彼女が立っていた。
「あ・・・」
「こ、こんばんは昨日はありがとうございました。おわびをしようと思ったんですけど、何がいいか分からなくて、で、これ昨日私が作ったボルシチなんですけど、良かったら食べてください」
「昨日って、帰ってから作ったの?」
ボルシチって、ねえボルシチって、酔っ払って帰ってボルシチってボル七って書くと、それはそれで武士っぽいし。親分と岡っ引きみたいでもあるし。
彼女はこくりと頷いて、僕に鍋を差し出した。
「良かったら、あの、一緒にご飯食べてくれませんか。昨日はあんなことになって、ちゃんとお礼も言えてなかったし・・」
「う、うん。君がよかったらいいんだけど」
なんだこのフラグ。何フラグ?ていうか、まだ罠なんじゃないかと思うの。
僕はドアを開けて、彼女を部屋に通してから、味見をしようとスープをスプーンでさらに取り、すっと吸い込んだ。スパイスの効いたスープは、しかしすっかり冷めていた。スープの冷めない距離の彼女が作ったスープが冷めているということに苦笑いしながら、僕はこちらを見て不安げにしている彼女ににっこりと笑いかけた。
なぜ、バカボンメイクをして酔っていたのか、なぜあそこまで飲んでいたのか、聞きたいことは幾つもあるけれど、この始まりの予感を、派手な色で始まる出会いを、もしかしたら運命の食虫花に捕まってしまったかもしれない僕の気持ちをこれから始めていけたら面白い。
「おいしいよ、メイメイ」
「よ、吉田ですぅっ!」
恥ずかしそうに顔を染める彼女は、昨日のメイクをしていた顔よりコミカルで、メイクを落とした顔よりずっと綺麗だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?