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揶揄の王国

ゾッとするような悪意と、無垢な狂気と、比べたらどちらがやばいのだろう。昨日に発表された羽生結弦さんの離婚に対するSNSの反応は、そのどちらもが見え隠れしていて、気温の低さとは別の、心の温度が下がっていくような感覚に陥った。

芸事というのは、人を惹きつけてナンボであり、実演やらライブというものは一種の宗教的な崇拝や陶酔を呼び込んでしまう。応援する気持ちがまだコントロールでかなるならいいが、勢いが止まらずに妄想が暴走すると悲劇に結びつきやすい。


ストーカーなり付き纏いというものは、我欲のみならずなんらかの精神的な疾患と結びついているのではないかと私は考えるが、背景がどうあれ自分が好きでいたはずの存在をコントロールしようとしたり、過度に関わろうとしていくのはいただけない。

スティーブン・キングの【ミザリー】がまさにそんな話だったが、映画も活字もどちらも怖かった。善意が悪意に転換していく様がやばいことこのうえなし。いや、善意こそが狂気と紙一重なのかもわからんけれど。

基本スタンスとして、SNSだろうと現実だろうと、表現規制や思想統制はダメ絶対!派なのだが、今回の羽生さんの離婚に至るまでの私生活への介入だったり、罵詈雑言や誹謗中傷の境目はきっちりと区切らなければならない何度目かのタイミングに来ているように思う。

テレビで、ネットで、注目が集まる事柄には強く光が当たる。光が強ければ強いだけ、影も大きくなるし、その人や物事への揶揄がはじまってしまう。

嫌いなら無関心でいればよかろうが、嫌いという気持ちは関心の強さでもあるから、イライラするほど気になってしまい、悪意は日常化し雪だるま式に気付かぬうちに大きくなってしまう。

自覚していない無垢さは、残酷にも悪意より酷いことをしでかす。羽虫の羽をもぎ取る幼子のように。

だから、私は無垢さも増幅する悪意も、その両方が怖い。揶揄に満ちたこの王国の片隅で、小動物のように逃げ惑っている。

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