あなただけのものを

訃報を耳にして、それが自裁であったとの詳細を目にするたびに、今生を終えられた事と、安らかな眠りにつかれることを願わずにはいられない。

私は、【あなたが捨てようとしている今日は誰かが生きたかった明日だったのだ】という理論を悩んでいる人に押し付ける人間に憎しみに近い感情を抱いている。

本人がそう考えて1日を大切に生きていくことを否定はしないし、それは尊いことなのだろうが、生きていることに悩みしんどい人にそれを押し付けるのは、自分が好きだからと胃痛の人に油まみれのステーキを押し付ける行為だと思うからだ。

誰かの死を悲しむことは、身も知らぬ人に対してのそれはエゴイスティックなことだと思う。言い換えれば、本人の心の痛みは本人のものであると言うこと。

なんとか苦しみや悲しみに耐えているその人を救いたい、痛みを軽減してあげたいと思っても、おそらくは上記した理論はその人を救わないし、逆に追い詰めることになる方が多いだろう。いや、それで救われる人がいないとは言わないし、気持ちが楽になる人もいるとは思うが。

私の友人は長く、若い頃から心を病み、結局自分から旅立ってしまった。音楽を通じて知り合い、幾度か手紙のやり取りをした。手紙という手段と、それぞれの好ましい音楽のやりとりが心地よかった。それでも踏み込めない部分はあったし、踏み込むつもりもなかった。

悲しみや痛みは原因を誰かや何かが与えても、本人にしか受け止めることはできないし、事象によって伝播したとしても、それはそれぞれの悲しみなのだと思う。

違うからこそ、わからないからこそ、言葉にできずにただ寄り添うことが必要な時や、遠くから窺うことしかできない時もあるのだ。

誰がいつどうなるのかなんてわからない。我々はそれぞれの命をか細いロープの上を歩く道化師のようなものだ。喜劇にしろ悲劇にしろ、群像劇にしても、舞台の上から次の場面にロープの上を渡り歩いている。

献血やドナー登録はできても、寿命そのものを誰かに譲り渡したり、移し替えることはできない。己の命を全うするのも、終わりを決めるのも本人の選択。だから、他人の生命を奪う行為や災厄はイレギュラーであり、理不尽すぎて受け止められないのだ。

命は尊い。奪われたら、あるいはなくしたら、ゲームのようには蘇生できない。そしてそれは、いつ終わるのかもわからないものだ。だから、他人の言でそれを決めるのはしてはならぬと私は思うし、他人の選択を愚かだとか、命を粗末にしてなどと軽々しく吐き捨ててはならんのだ。

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