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薔薇と美醜のマリアージュ

雑草という花はないという言葉はうつくしい。うつくしいのだが、野に咲く花や植物をそう名前をつけて呼ぶのが人間しかいない時点で、その概念すらも揺らいでしまうのではないかという疑念もある。

猫を可愛いと思う人もいれば、昆虫が愛おしいと感じる人もいて、美醜や思考の感覚は平均値や総論で語れるものではないというのが私の経験則である。だから、美醜に対して外見で人を全て判断するなという反ルッキズムのようなものは、わかるけど、自分も何かしら嗜好で判断するなら同じだよなとは思う。

それでしか判断しない風潮への抗議であるとは思うが。


薔薇がうつくしいと思う。棘があるあたりがよけいに。私はサボテンも好きだが、棘があるものに惹かれてしまうのもまた、視覚の好みだ。薔薇に棘がなかったら、今ほど好みはしないのではなかろうか。

ハリネズミちゃんも、また棘がなかったら、ただの可愛らしいネズ吉で、可愛いのだけれど身を守るために進化の過程で棘を身につけたあの姿と、痛みながらも寄り添うというあり方が好きなのだ。

アトピー性皮膚炎を幼い頃から患っていた私は、同級生からひどい言葉を幾度も投げかけられた。かきむしって血だらけの皮膚より、ずっと奥底を傷つけられた気がした。

見目に対して、ポジティブな反応なんて受けたことはないし、劣等感に苛まれた思春期から青年期を送らざるを得なかったことは今も悲しみとしてある。

あるのだけれど、じゃあそんなに嫌なら整形なり減量なり、見目を変える努力をすれば良かったわけで、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいないなんて、そんなに珍しい話ではない。今ではそう思っている。

美醜の概念は時代、文化や国によって異なるし、蓼食う虫も好き好きという言葉があるように、多くの人に刺さらなくても自分の嗜好にはたまらなく合致するなんてこともあるから、誰かの嗜好と自分のそれがずれていたって問題なんてない。揶揄してくるやつの声に耳を貸すより、自分の好きや大切を追った方が楽しいと思う。

花や自然の美しさや、動物などの愛くるしさは、誰に教えられたものでなく自分が感じたもの。見目で判断してしまうのは、ある程度は仕方がないし、美しい人がそれだけで非難されたり隔離されてしまうことの危険性も考えられたらいい。

コピーのように、みな見た目が同じになれば、平和は訪れるかと言えばそんなことはない。見た目が全てなどという考えの人に寄り添いたいとも思わない。どちらかによる必要はない。

薔薇は薔薇のままで美しいが、人はそうもいかない。いかないけれど、枯れる姿や衰えまで趣があるなら、そのままでいられずとも、見目が悪くとも、笑ってくれる誰かに歩ける花でありたい。

トゲだけは言葉にも心にもたくさんあるから、誰かに刺さる文章であればいいなこれも。

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