100日目の告白

文章を公に晒すということは、全裸で道を歩く事よりも恥ずかしい行為と考える人がいる。確かに、全裸は表皮でしかないが、文章は内面や脳髄の中の神経の結びつきの産物までを見せてしまうのだから、その観点ではえげつないことこのうえなし。

死骸の山の後に咲く花が、想像を超えるような美しいものであることもありえるし、醜聞や愛憎の果てに見出した感情が新しい芸術を生み出す可能性もあるから、単純な、きれいときたないの区別は危険というのも、また一面の真理ではあるだろう。

というようなことを本日含む100日の間に、ああでもない、こうでもないと言葉を弄びながら書き続けてきた。過去に書いた小説の供養としての、後悔の公開もあったし、降るに任せた言葉が奏でる音階を文字に置き換えた詩を書いた日もあった。

継続は力なりというが、自己否定の連鎖であったり、ネガティヴに考える癖がついたままの歳月は、負の方向にも力を蓄えてしまうし、そんなフォースの暗黒面ばかりを手癖で煮詰めてしまっては、流れる時間に対して勿体無いことになってしまう。

失敗したり、誰にも気付いてもらえなくても、書かれた絵画は何らかの意味を持つだろうし、トライアンドエラーの中から閃きが見出されることもあるだろう。それを信じて、1日1日言葉を紡いできた。


言葉は呪いである。現象に名前をつけてしまうから。まして、その意味を組み立て、絵図を書こうというのならば、その呪いを引き受ける覚悟がなければ文章など書いていかれないのではないか。私の場合はという話になるけれど。人を呪わば穴二つというが、幾つ穴を掘ればいいのかわからないレベルの話。

結局のところ、文章を書くということはなんなのか。一銭にもならぬ、誰に読んでもらえるのかわからぬたわごとのようなループした思考回路から導き出される、あるいは降ってくる雨粒のようなものを紡ぐのは、書きたいから書くというエゴイスティックなものでしかない。

誰に当てたわけでもない手紙を瓶の中に入れ、コルクで蓋をして電脳の海に流すという行為。奇しくも、この100日目はあの911の日になった。電波で恐怖や世界が歪むような感覚を味合わされたあの日から数十年。当時の私の奥底にあった気持ちと、今のそれは同じではないだろう。

だが、繋がっているのだ。感情の源流から流れる血のような言葉は、きっと過去と現在を繋がって流れている。それもまた流れていくのだ。月日に、痛みに、感情が流れ着く場所に。

それが知りたくて、そこに行きたくて、なにより書きたくて100日を紡いできた。願わくば、これからも可能な限り紡いでいけますように。

露出狂のスケルトンたる露骨な私の懺悔のような告白。

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