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なまめかしい古傷

体に這う指を、なぜ僕はつかめなかったのだろう。
彼女の指先が震えていたのは、いつだって熱帯夜で、その理由を尋ねることもしなかった。それだけの資格を、僕が持っているとは思えなかったし、あけてしまったパンドラの箱を、閉める術を僕が手に入れられるとは思っていなかった。

いや、そんな微かな震えにさえ、気付けなかったのが、あの頃の僕らの半端な恋愛に与えられたスキルだったんだろう。

片田舎の恋なんて、惰性で始まって、怠惰で終わる。
そんな理屈で、自分を誤魔化していた。
僕は僕を信じない。僕と彼女を信じない。
ジョンレノンの、僕はビートルズを信じない。僕とヨーコだけを信じるという言葉の皮肉なフェイク。

東京に憧れた事なんてなかった。まさか、行くと浚われて、香港にでも売り飛ばされるなんて信じるくらいの田舎に住んでいた訳じゃないけど、地方都市のほのぼのとした混沌に酔っていた僕には、彼女の抱えている悩みなんて気付きもしなかった。

看護士になりたいの。最後のメールにはそう書いてあった。それをそのまま信じるほど、僕はめでたい男じゃないけど、彼女が何処かの病院で、あの笑うと目がなくなるほどの笑顔で、誰かの救いになっていると思うと、少しだけ僕も救われた気分になる。

彼女の本当の両親が、一家心中を計ったのが、真夏の夜だったって事を知ったのは、彼女が東京にいってから数年が経過した頃だった。彼女と仲の良かった女の子と同級会の三次会を終えて、酔いに任せて入ったラブホテルでの怠惰な時間の終わりだった。世間から避難されるような最低の状況で知らされるには、ふさわしかったのかもしれない。

地元では有名な話らしいが、僕は、大学からこの街に来たから、その話は知らなかったし(彼女が小学三年生の頃の話だという)、彼女から僕にその事実が告げられた事は一度としてなかった。ドラマみたいに、寝ている時に彼女がうなされることはなかったし、安易にトラウマを見せるほど、彼女は僕に弱さをみせたくなかったのだと今では分かる。

寝汗ではなく、冷や汗だったんだな。
僕は、そう呟いて、彼女の友人の髪を撫でた。
そして、その汗の上に、少しだけ醒めた涙を流した。

別れの数日前、彼女といった植物園で、僕はサボテンの小鉢を彼女にプレゼントした。彼女がこの街を出て行った朝に、そのサボテンはアパートの近所を流れる河に浮かべてあった。

【看護士になるまで、いや、きっとなってもあたしは、この針を見るたびに、あなたを思い出すから。あたしの刺がいつかなくなってしまうまで、あなたが持っていてくれると嬉しい】

ねえ、僕の刺は、いまでもどこかにささったままで、それは小さすぎて、だからこそ、いつまでも体のどこかに入って、たまに胸を炒めるんだ。君の友達と寝てしまえるような男の台詞じゃないかな。 こんな嘘に、君のついた嘘か本当か分からない約束を重ねても、自分で縛った傷口から本音も涙も、あの日から漏れて来ないんだ。
僕の無様な止血は成功しているんだろうか。

へらへら笑いながら、僕は毎日サボテンに水をやっている。

悔しそうな、悲しそうな顔なんてしてあげない。
惰性で始まって、怠惰で終われなかった恋の傷跡に故意に痛みを上乗せするのは、自傷なんかじゃなく自嘲。
それでも、ねえ。君を思い出すたびに、ずくりと脈打つ傷跡の下の血の流れは、終わらせきれていない恋の名残なのだろうかねえ。

枯れないサボテンに、枯れてくれない想いが、包帯を巻かない、止血済みの傷跡を疼かせる

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