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夜の華媚(朱い涙)

粒となり、弾ける玉の汗が二人の体を流れていく残像が好きだった。あたしの名前を呼ぶ兄の必死そうな顔。その顔が見れるのなら、どんな苦痛でも乗り越えていけると思っていた。


兄は、あたしが18歳になった誕生日の朝に、線路に飛込んで死んだ。自殺の理由は今もわからない。最後に肌を重ねたのは、兄が飛込む五時間前だった。


兄とあたしは、血の繋がりは無く、あたしが、17歳の時に父の再婚相手の義母が連れてきた子供だった。初対面の時から、弾けるような笑顔が似合う、素敵な男だった。あたしよりも3つ年上で、大人びた雰囲気の彼に、あたしは初めから恋していたのだと思う。

『沙羅、明日一緒に釣りに行かないか』

兄があたしの家で一緒に住むようになってから、五日経ったその日、あたしたちは、海へ行った。両親とも、二人が仲良くなることが望ましいと思っていたのか、何の反対もされず、電車に乗り近くの海へ出かけた。

夏は少しずつ、遠ざかっていたが、紅葉が始まるほど秋が近くには来ていなかった。あたしと兄は、ごく自然な形で手を繋ぎ、人気のない海岸で抱き合ってキスをした。兄の唇は少しだけ罅割れていて、かさついた箇所をあたしの唇で包む瞬間に、体に電流が流れたように感じた。あれが、初めて感じた絶頂だったのだと思う。

海岸の近くにあった古いモーテルで、あたしたちは裸になった。早熟ではなかったけれど、一通りの知識は学校の授業や、友達の話で知っていた。初めての経験の痛みを恐れるよりも、あたしは兄とひとつになることを願っていた。欲望が、情を凌駕したのか、あるいは、その逆なのか。どちらにせよ、あたしの中に兄が入ってきた時に、あたしは歓喜の声を体があげるのを聴いた。痛みすら愛しいと思えた。


それから、両親が居ない夜や、学校が終った後に二人で待ち合わせをして、あたしたちは数えきれないほど体を重ねた。背徳感は全くなかった。愛しさだけが積み重ねられていくようだった。



兄が亡くなってから、あたしは両親の反対を押し切り都心の会社に就職した。機材のリース会社の事務だった。最初から仕事の内容なんてどうでもよかったのだ。兄との思いの溢れる土地から、遠くへと逃れたかった。


あたしが街に出てきてから二年が過ぎた頃、父が義母と離婚した。原因は義母が他に好きな男ができたという事らしかった。成人式に行かなかった時、友達から電話があり、義母が若い男をとっかえひっかえ付き合っていると話を聞いた。地元の街では有名な話らしかった。あたしは、兄がいなくなってしまった事で母の気持の中で何かが壊れてしまったのだと思った。そして、それはあたしも同じだった。

仕事を始めてから、何人かの男性と知り合い、交際をし、褥を共にしてきたけれど、誰にどんな事をされてもあたしは感じなかった。瞳を閉じて、兄との思い出を思い出すことによって、あたしは誰かの体を借りて兄の亡霊と交わっていたのだ。

代わり映えのしない暮らしの中であたしが考えていた事は、悲しみの色は、どんな色をしているのか、そんな事だった。男は醒めた夜の蒼、女は血を流し生きる朱、その二つが交わる色は紫のはずだ。不透明で、残酷な濃い紫の色。生理の血のような色だと思う。けれど、兄との日々は、紫色では無かったはずなのだ。それが、どんな色をしていたのか、彼が命を絶った今では、思い出すことはできないのだけれど。


体を重ねる行為は、想いを重ねる行為だなんて思わい。亡霊を呼び寄せるための牲犠は誰だって良かった。特定の男と交際をする気はなかったし、誘われれば誰とでも寝た。幸い病気にはかからなかった。どうでも良かったのだけれど、あたしと寝る男は何故だか必ず避妊具を用いたがった。それが責任で、優しさだと思っているようだった。

隔てる物がなく愛し合えたのは、兄だけなのかもしれない。あたしから何も言葉を発する事はなくても、言外にそういう雰囲気を醸しだしていたのかもしれない。


ある日、会社に義母が突然訪ねてきた。

上司に早退する旨を告げ、あたしは義母とレストランへ入った。ランチタイムは終っていて、ぽつぽつとしか人が居ない時間帯だった。

義母は、父と別れてからの自分の話を一時間ばかり話した後、ついでのようにあたしの東京での様子を聞いた。あたしは適当に話を作り、本題が語られるのを待ち続けた。

『それでね、沙羅ちゃん。今日来たのは他でもないんだけど』

やっと、長い回り道を過ぎ、話を切り出したかとあたしは、注文したアイスコーヒーの中の氷をストローでかき混ぜながら答えた。

『なんですか。あたしにできることだったらなんでもしますよ。もう戸籍では関係ないけど、兄のお母さんなんですから』

兄の遺骨は、義母の家系の墓でなく、あたしの家の墓に入っていた。あたしが死ねば兄の骨と、あたしの骨は混じり合うだろう。死ぬ前に二人だけの墓を建てることを目的に、密かに貯金は始めていた。あたしと寝た男が、請求もしないのに勝手にベットに置いていった金だった。

『沙羅ちゃん、どうして私がお父さんと別れたか聞いているわよね』

『いえ、それにそれはお二人の問題ですから、別にあたしには関係ありません。知ったところで何も変わらないし』

『そう、何も聞いてないのね・・・・』

『はい。で、お願いって何ですか。すいませんが、用が済んだら会社に戻りますので』

義母が嫌いなわけではないが、好きなわけでもない。会社を早退してきた事は言っていないし、できる事なら早く一人になりたかった。この人といると兄と過ごした濃密な日々を思い出してしまい辛くなりそうだった。

『これを読んで欲しいの』

そう言うと、義母は手元のケリ―バックから一通の古びた便箋を取り出した。

『これ、この字ってもしかして』

『そう、あの子のものよ。本当なら、二年前にあなたに渡さなければならなかった物なの』

封筒には、兄の筆跡で“沙羅へ”と書いてあった。

『今度ね、引っ越す事になったの。あなたに、こんな事を言っていいのかわからないけれど、お付き合いしていた人と一緒に暮らすことになってね。それで荷物を整理していたら、淳の日記が出てきて、その中にそれが挟まっていたの。日付けを見たら、あの子が自殺・・・いいえ、事故にあう前日に書かれた物だって気付いたの』

『義母さんは、これを読んだんですか?』

あたしは少し強い口調になってしまった。大切な宝物を守ろうとする衛兵のようだった。

『いいえ。なんだか、これは読んではいけないような気がしたの。それに、ようやく時間が経って、あの子が居ない事を受け入れられるようになってきたのに、また思い出してしまいそうで。焼いてしまおうかとも思った、でもこれは沙羅さん宛てに書かれたものだから。あなたに届けに来たの』

そう言うと、義母は手紙をあたしに差し出した。震える手でそれを受け取って、鞄の中にいれた。その場で読む勇気は無かった。

『あなたのお父さんを裏切ってしまったのは申し訳なく思っている。でも、あの子を亡くしてから、どうしようもなく寂しかったの』

『寂しさですか』

『えっ』

『あなたが、兄を忘れようとして、誰かと寝たのは寂しさからなら、あたしも同じだから別に構いません。でも、たぶんあなたは兄がいなくならなくても、誰かにすがっていたでしょう。体裁を整えようとする必要なんてないんです。嘘をつくより醜いですよ。そんなの』

あたしは、それだけ言うと、伝票を掴みレジへ向かった。早く一人になりたかった。兄の手紙を持ってきてくれた義母への感謝など微塵も無かった。その手紙を見付けなかった彼女への怒りすら感じていた。

都合良く、過去を塗り変えて兄の存在よりも自分の身を守ろうとする義母の姿に寒気がする。あたしは、そうはなりたくない。


部屋に帰り、長椅子に座って、鞄の中から手紙を取り出す。無印のレターセット。便箋には懐かしい、白鳥が軽やかに踊るような文字が書かれていた。

震える手で、あたしはその封を開ける。爪で軽く触れると、乾いた糊がパッと小さな音をたてながら剥がれていった。長い間閉じ込められていた兄の言葉が、現在の空気と溶け合っていく。

あたしは、ゆっくりと新生児の体に触れる母親のような手付きで、中に入っている便箋を取り出した。

《沙羅、君と会えた事が僕を許してくれた気がする。僕は自分の存在がいつも分からなかった。なぜ自分は生きているのか、呼吸をしているのか。僕はコワレモノなのだろう。だから、僕は壊れなければならない。それを今まで伸ばしたのは君が居てくれたからだ。でも、このまま君と居たら、僕はいつか君をコワレモノにしてしまいそうな気がする。だから、僕は行く。この手紙は、読んだら焼いて捨てて欲しい。最後に君に愛を込めてこの絵を送るよ。じゃあ、また、いつか何処かで》

その手紙に同封されていたのは、鉛筆で書いた、あたしの眠っている表情だった。唇の辺りが微かに薄く消えていた。最後のお別れのキスを、兄はあたしとしたのだろう。

あたしは、その手紙をくしゃくしゃに握り締め、空が壊れてしまったように泣き崩れた。兄の笑い顔が浮かんでは消え、胸が焼けるように痛んだ。


会社を三日無断欠勤して、電車に乗って宛てもなくふらついていた。どこか、自分を壊す場所を探していた。兄に会いに行こうと思った。

何処に行っても、その場所には、その場所の空気があって、あたしは自分を壊せないまま移動を続けた。髪はくしゃくしゃで、化粧もぼろぼろ、きっとひどい顔をしている。構わない、どうせ壊れてしまうのに、見た目なんてどうでもいいんだ。

『なぁ、あんた俺と寝ないか?』

突然、その男は声を掛けてきた。ナンパと呼ぶには、あまりにも直球すぎる声のかけかただった。男は短い髪を茶色に染めていて、とても骨格のしっかりした体をしていて、古そうなジーンズと幾学的な模様のプリントされた黒字のTシャツを着ていた。

『いいよ』

自然と言葉が出た。行き場所が無いなら、何処で誰と何をしても構わない。生きることに疲れたというよりも、兄に会いに行きたいと思っていた。

『あんたも、寂しい眼をしているな』

『何?』

『あんたも、俺と同じだろ。だから声をかけたんだ。あんたは、此処にいない』

『ねえ、何を言ってるかわからないんだけど』

『なぁ、人間なんて大したもんじゃない。起きて、寝て、排泄して、おまけのように愛だ恋だ言って、繁殖するだけさ』

『それで?』

『だから、死ぬくらいなら、だらしなく寝ようぜ』

そう言うと、彼はあたしの腕を強くつかみ、引っ張っていった。痛みを感じるより先に、そのつかまれた手の強さが自分が生きているという事を感じさせた。



『ねえ、孝文。どうして、あなたはあの時、あたしが死にたいと思っていると思ったの』

いつか、彼に訊いた事があった。

『俺も、そう思っていたからさ』と彼は言った。あの夜に、あたし達は時間を忘れるくらい何度も体を重ねた。けれど、何故か彼には兄の面影を重ねることができなかった。

『孝文も、何か辛いことがあったんだね』

『どうかな』

そう言って彼は背中を向けて煙草に火をつける。兄の事は彼には話していない。彼も、あたしに何も話すことはない。定期的に会って、定期的に寝るだけ。それでも、彼と居るときは兄の事を思い出さずにいられた。

欠落した同士だから、男女は体を重ねるのかもしれない。孝文が埋めるあたしの空白、兄とあたしは重なることから溶け合うことへと進化してしまった。だから、兄の痛みも悩みも気がつけなかった。あたしは、今孝文の体に抱かれて欠けた部分を確かめ合うように眠る。それは、愛や恋じゃなくても、どうでもいいとあたしは思っている。


兄の手紙を最後に読んだのは、孝文と最初に寝て、次の日に家に帰った朝だった。ふらふらになりながら、朝焼けの中で見た手紙の文字がにじんでいた。それは朝焼けを見て涙を流すあたしの朱い涙のようだった。

生きようと思った。この朱い涙が体に流れるうちは兄を忘れることはできないけれど、それでもいつか彼に逢えるまで歩いていこうと思った。

そして、あたしは、兄の手紙を灰皿の上でウイスキーをかけて燃やした。朝焼けの中で燃える炎は本当に鮮やかで、その熱はあたしの頬の涙を乾かした。兄が頬を撫でたような気がした。

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