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はじめての約束

指きりの代わりに、額を合わせて、キスに満たない約束をしたのは、いったい何歳の頃の記憶なのだろう。志田清は、通勤電車の混雑の中で、何処からやってきたのか分からない追憶に苦しんでいた。いや、喜んでいたのかもしれない。ネクタイを締めて、カバンを持って、あとは会社での作業に追われる。そんなステレオタイプな表現がふさわしいルーティンな日常に疲れていた彼にとって、その妄想は、砂漠でのオアシスとまではいかなくても、寒い冬の日の、帰宅後のシチューのぬくもりのようであった。まあ彼は独身なので、作るのも自分なのだが、あるいはレトルトか・・・。

「ああ、俺、そういえば約束なんて、誰とも最近してないな」

ぼそりと呟いた声が、隣の眼鏡を掛けたすだれ髪のおっさんに聞こえたのか、露骨に嫌そうな顔をして、おっさんは新聞紙を広げた。うわのそらの志田は、全く気付いていなかったが。志田の胸の中には、正体不明のもやもやが渦巻いていた。

志田が最期に約束をしたのは、三年前に別れた彼女と、昨年街で会った時に彼女が結婚するという知らせを聞いて、式には電報を打つよと安請け合いした時なのだが、結局その約束は果たされる事はなかった。結婚式を一ヶ月後に控えた日に、彼女から電話が掛かってきて、婚約者の浮気が発覚したために式は白紙に戻したと連絡があった。

下心がなかった訳ではないが、純粋に彼女の気持ちを心配して、志田はデートの約束をした。けれど、彼女は待ち合わせの場所には来ず、携帯電話も解約されてしまっていた。

そんな痛々しいような、情けないような出来事を覚えていないのも、いたしかたあるまい。忘れる事でしか癒されない傷というものはある。が、彼が電車の中で見ていた記憶は、その彼女との記憶ではなかった。


定時に仕事が終わるはずもなく、サービス残業が禁止された現代においても、彼の会社は仕事が終わるまで、家には帰れなかった。その気になれば帰宅は可能だが、個人情報保護法案が成立して以来、会社の書類を自宅に持ち帰ることは禁止されていたからだ。高卒で入社した志田には、将来のポストなど望めるはずもなく、また本人も上を目指そうという気はさらさらなかったが、入社2年目を迎え、仕事の面白みが分かるようになってきた時期だった。

家に帰ったのは日付変更線が変わる数分前、ネクタイを緩め、スーツをハンガーに掛けると、敷きっぱなしの布団に倒れこむようにして、志田は眠りの泥に埋もれていった。

夢の中、志田は故郷の町を歩いていた。幼い頃の自分が、誰かと手をつないで歩いているのが見える。やたらと煙突が並んだ工業地帯。町外れにある公園に向って、手を引かれながら歩いていく。ふと上を見上げると、ポニーテールの、優しげな顔をした女の人が、にこにこと笑っていた。

「きーくんは、大人になったら何になるのかな」

「ぼくね。みかちゃんとけっこんするの」

「あらあら、おませさんだこと、でも、きーくんが大人になる頃には、たぶん、あたしおばちゃんになっているわよ」

「いーの。きーくんは、みかちゃんとけっこんするの」

「じゃあ、約束してくれる?」
「うん!!」


そこで目が醒めた。朝の記憶と追憶が繋がった。そして、志田はカレンダーを見た。時計の針は、23:45分を指している。

急いでスーツのポケットに手を入れ、携帯電話を取り出して、志田はゆっくりと、ボタンを押していた。メモリーに番号は入っていない。けれど、彼の指は、ほぼ機械的にあの番号を押していた。

3コール目で、電話が繋がった。

「はい。水崎ですが」

「あ、僕です。志田清です。ご無沙汰しています」

「あ、志田さんの所の、まあ」

「夜分に申し訳ありませんが、明日、そちらにうかがってもよろしいでしょうか」

「・・・・。ええ、だけど、わざわざ悪いわ」

「いいえ、会いに行きたいんです」

電話の向うで沈黙が生まれる。志田は、当然だなと思いながらも、決心は揺るがなかった。

「わかった。何時くらいに着くかしら」

「わかりません。朝一番の電車で行きますが、ついたら連絡します」

「そう、わかった。気をつけていらしてね」
そういい残して電話は切れた。


翌日、志田は仏壇に手を合せ、十年ぶりの再会を果たしていた。
(美香さん。おひさしぶりです。僕は大きくなったでしょう?)
写真の向うで、水崎美香は、ポニーテールを指で触りながら、幸福そうに笑っていた。永遠と瞬間がそこに凝縮したような笑顔だった。

「すいません。突然お邪魔してしまって」

「いえ、かえって、申し訳なかったわ。主人から連絡するように何度も言われていたんだけど、思い出すと、今でも辛くなるから・・・」

志田は、おばさんの肩をそっと抱きしめた。
本当に抱きしめたかったのは、写真の中で笑っている美香の方だった。そして、それは叶えられるはずの約束だった。

「もう、あれから16年も経つのね」

「ええ、16年です。僕も26歳になりました」

おばさんは、涙をこらえきれずに志田の胸の中で嗚咽を続けた。
志田は、その香りを思い出した。美香が泣く時、いつもとは違う香りが、首のあたりからたちこめることを。性のことなど、何一つ知らなかった子供の頃、美香に抱きしめられて記憶が、あの香りが、蘇った。

「あの子が生きていたら、もう30になっているのね。美人薄命なんて、いつもお母さん言っているけど、あれは嘘なのねっていつも笑っていたあの子が、まさか先に逝ってしまうなんて・・・」

美香が自動車事故で亡くなったのは、志田が彼女と約束をした翌週の日曜の朝だった。彼女の習慣だった飼い犬のポコの散歩をしている最中に酒気帯び運転のトラックに跳ねられて、地面に叩きつけられ、彼女は、この世界から消えてしまった。

幼かった志田は、その現実から逃れるように、ただ部屋にこもっていた。あれほど幼い頃から世話になったというのに白状だと父親は彼を叱ったが、母親は彼が背負った傷を理解してあげるようにと、父親を説得した。

数年後、父の転勤で、東京に移ってからは、田舎のことを思い出すこともなく、慌ただしい日々と、新しい環境と、ありふれた思春期の中で、美香の事は忘れていった。いや、忘れるために、ありふれた景色の中へ逃げていったのかもしれない。

「でも、覚えていたの?今日が美香の誕生日だって事」

「はい。約束ですから」

その言葉に、美香の母親は、何度も頷いて、それからまた嗚咽を洩らした。部屋には、その声だけが響いていた。
それから、三時間ばかり美香の思い出話や、近況について語り合ってから、志田は礼を行って水崎家を後にした。

駅までの道をとぼとぼ歩いていると、北側公園の前に着いた。来る時は別の道を通ったので、この場所に来るのも16年ぶりだった。

(ねえ、きーくん。もしあたしが30になってお嫁にいってなくて、もしそのとき、きーくんが誰かを好きになっていなかったら、あたしと結婚してくれる?)

あの時、美香はそう言った。義父との折り合いがいつも悪く、怒鳴りつけられたり、殴られたりしていた彼女が涙を見せるのは、夕暮れがせまった街の、この公園で志田と過ごす時間の、もう帰らなければならないという時間になってからの事だった。

「ねえ、美香ちゃん。ずるいよ。約束したじゃないか。確かに僕は、僕は君のことを忘れていたけど、ちゃんと思い出したよ。今日が美香ちゃんの30歳の誕生日だよ。僕も、なんとかグダグダな生活だけど就職して、きっとあと数年もすれば、給料も増えるし、社宅にだって入れるかもしれない。だからさ、いつ結婚したっていいんだ。それとも、こんなに大きくなってしまった僕じゃ好きになってくれない?」

気が付くと、両の眼からは涙が溢れていた。あの日、指きりの変わりに額を合せて、志田の額に自分の額を、頬を合せて、泣きながら約束を交わした彼女の香りと、涙に濡れても、変わることなくうつくしかった瞳が蘇った。

「ねえ、おじちゃん。なんで泣いているの」
振り返ると、そこには髪を長く一つに結んだ女の子がいた。

「ちょっとね、知り合いに会いに来たんだけど、会えなかったんだ」

「そうなんだ。でも、泣いてるのって寂しいし、辛そうだから、出来れば笑ったほうがいいよ」

(それは僕が彼女に行った言葉だ)

「そうだね。できるだけ笑っていたいね」

「じゃあ、約束。ユミね。約束するのって嫌いだけど、だからしたことってないんだけど、おじちゃん可愛そうだから、するの。おじちゃんは笑うの、で、ユミも笑うの。いい?」

「ああ。そうだね。じゃあ、ユミちゃんにとっては、これが最初の約束なんだね」

「うん。おじちゃんは?何回目の約束?」

「覚えてないな。最近した約束すら覚えてない。でもね、思い出したんだ。僕が初めてした約束の事を」

それを聴いた彼女は、僕の顔を引き寄せて、額と額をこつんと合せた。

「なんで、君がそれを」

「あのね、小さい時にね、あたしプールで溺れたの。そのときに気を失って、そのときにどこかで会ったおねーちゃんに、人と約束をする時にはこうするのって言われたの。暗くて、何も見えなかった場所から、おねーちゃんが光のほうへ連れて行ってくれたんだよ。そこで、教えてもらったんだ。それ以来、会ってないけど。元気なのかなあ」

美香・・・。みかちゃん・・・・。
志田は流れる涙を抑える事が出来なかった。
「もう、おじちゃん、泣かないって、笑うって言ったじゃない」

「ああ、そうだね。約束だもんね。」

流れる涙をそのままに、志田は笑った。どこかで、美香がそれを見ていて笑ってくれている気がした。約束の朝に、彼は果たされなかった、はじめての約束と、結ばれたばかりの新しい約束を抱きしめながら、空を見上げていた。涙は太陽に照らされて、瞬きを擦り抜けて、輝いていた。

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