記憶の岸辺に咲かないで

京極夏彦【鵼の碑】を読み終える。
或るものと在るものについての小説だと私は思ったが、正解か否かはどうでもよく、一晩寝て胸に濾過されずに残っているものを受け止めれば良いと思っている。

長時間、一冊の本と向き合ったのは随分と久しぶりで、完結したり、長期連載中の漫画を最初から読み直したり、読んでみるということはたまにあるけれど、こと一作品として小説を読み進めるということは久しぶりだった。

つまらないというか、自分に合わない文体の小説は短編であろうと掌編であろうと読み進めるのが苦痛になり、読み終えるまでに、やたらと時間がかかることはあるが、続きを知りたくて頁をめくりながら、膨大な数の文字を脳内で食する経験は良いもので在る。

棋士が勝負の際に、甘味を食べるのは脳を使うことで膨大にカロリーを消費するからだという話を聞いたことがあるけれど、そうして考えてみると幸福な読書体験というものは体にも良いのかもしれない。少なくとも、精神衛生上は良いと思う。

逆にいうならば、精神的に疲弊していたり、疲れが溜まっている際には本質的に良い読書はしにくいのかもしれない。個人差はあるだろうし、憂鬱な時により響く本というものは存在するが、やはり調子は良い方が望ましいのではないか。

読書は人生を旅するようなものであり、自分として己の一生は一度しか体験できないのだけれど、ドキュメンタリーやルポタージュに限らず、創作の小説でも、その本の数だけ誰かの物語を擬似体験できるからね。

あと死ぬまでに何冊の本を読むことができるだろうか。あるいは、この腐れた頭の中から言葉を紡いで、私も物語を残すことができるだろうか。

過ぎた時間の記憶の岸辺に咲く花を模写することなく、その岸辺に積み上げた物語を糧として、私は私の花を咲かすことができるだろうか。確かなことは、生きている限りはこれからも物語に触れていきたいと願っている。

今年の夏が終わりに近付いて、日が暮れるのが早くなりつつある。気温はまだまだ夏を色濃く残しているけれど、それもやがて収束していき秋を迎える。

夜長に月明かりを光源として、なんらかの本、例えば子供の頃に読んだ本を、当時の親の年齢近くになった自分がどのように感じるのかを試してみようと思う。

記憶の岸辺と、いまの自分が立っているこちら側の景色を見てみたいのだ。

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