創作届けは不純な不受理

私が文章を書く際に、タイトルから書くことがほとんどで、書きたい内容から逆算して名前をつけることは、ほとんどない。

胸の中、あるいは右脳が左脳かどちらかに存在する書きたいことを無意識に分類して、なんとなしに名前を与えた地図を手元に足を進めていく。

地図といっても、そこにあるのはゴールの場所といまいる場所の名前くらいで、未開の地でこそないものの、あとは現地に赴いて、通りにくい場所は己で切り開かなければならないし、楽なものではない。

職業として言葉に関わっている人は別として、己の中の漂流記を紡いでいる人間は、楽ではないとしてもその行為を愚痴るべきではないのだろう。言語的排泄、あるいは自発的な示威行為かつ自慰行為を公開するなんて変態以外の何者でもないのだから。

私は小説を読むのは好きだが、その作者がどのような人物であるのかはあまり問わない。エッセイを書く人であればそれを読めば良いし、なければ小説の中に刻まれている哲学のようなものを感じれば良い。男性か女性か、年齢がどうとかはどうでもいい。

音楽やエンターテイメントの場合は、ヴィジュアルや周辺情報も武器の一つであろうし、ましてやアイドルは語源から考えても、期間限定の偶像であり、その消費期限含めての賞味であり、本人たちとしても、それ込みでのShow Meってなものだろう。瓶詰めの中のピクルスであるよりも、腐敗する甘い果実でありたいと思う人が多いのではないか?。

それが行き過ぎれば、破滅の美学や27CLUBにつながってしまうのだけれど、今日では平均寿命もかつてより伸びたし、本邦でもジュリーや杉良太郎さんなどリヴィングレジェンドも生まれているからな。

話はそれたが、日々の言葉をまとめる作業はじぶんがやりたくてやっており、ましてやそれが人様に読んでいただけるという僥倖に私は頭が上がらない。精神面に於ける自傷行為や自慰行為に類する事柄が、誰かにとっての好奇心や楽しみに繋がるなら、道化めいたこの日々も報われるというものだ。

個人的に記す日記も、バイオハザードの【かゆ、うま】も誰かに読まれることを意識して書かれているわけで、ましてこの文章なんてものはインターネットの海原にある桟橋で、ボトルの中にメッセージを入れて誰かに届くことを願って出している。

ネガってばかりの人生を送る奴が寝返りを打つように、誰かに届くことを願うほどに、創作意欲と自己顕示という感情はモンスターだということか。

だとしても、ルーティンでなく、思うことが尽きない日は反応してくれたり、あるいは目に留めてくれた、これを読んでくれているあなたたちのおかげです。貴重な時間をありがとう。

恥ずかしがり屋(ちっとも信じてもらえない)な私からの心からの謝意を込めて。

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