’鬱病人生’パート②

仕事を辞めますと、電話で告げた。
こんなに早く辞められると困るんだよね、と私を合格させた男がイライラした口調で言った。
すみません。と、力無く謝った。早く電話が終われと思いながら何回か謝った。
罪悪感でいっぱいだった。
店長、お母さん、自分は社会不適合者です。と。
情けない気分になったし、お金のことだけを考えて、合わないと分かっていた真面目なルールばかりの職場を選んだ自分にも怒りを覚えた。
その後は、2階のシングルベッドの上でずっと寝ていた。朝9時か10時になると、あんたいい加減に起きなさい、と母親が布団を剥ぎ取りに来る日もあったけれど、起きてもやりたいこともないし、やりたいことや買いたいものに使えるお金もなかった。

数週間経った頃に、海外で出会った大阪の同い年の子から電話があった。イギリスのYMS(ワーキングホリデー)に当たったという歓喜の電話だった。
当時のイギリスのワーホリは、12月31日に大使館にメールで申し込んで、数週間後に当選者500人のみに合格メールがくるというシステムだった。
抽選方法は早い者勝ちらしいという噂もあったけど、完全に運らしいという噂もあった。
イギリスは英語圏なこと、音楽やファッション、文化などのファンが多いことに加え、ワーホリ中の学習や労働時間に制限がなく、期間も他の国が1年なのに対し2年なこともあり、人気の渡航先で、友達は相当の倍率の中見事に当選をしたのだ。
電話では自分の今の状況はあまり話さなかった。なぜなら、彼女はそういう話題とは無縁の人だから。
希望に溢れている人の前で、自分のネガティブな面を話すのは気分を害するかもしれないし、失礼なことのように思った。
電話越しで、明るく、人生に何の問題もないように話すのはいつも簡単だ。
でも内心は、いつの間にかあと数ヶ月で21歳になってしまうし、周りがほしい物や場所を手に入れてるのに、自分は立ち止まっている感覚がした。でも。
イギリスにもう一度住みたい、と再確認させてもらった電話になった。

求人誌で、私でも働ける職場はどこか見ていた。
こんな目が死んでる若者を雇ってくれる職場はあるのか不安だった。
家から車で15分くらいの場所にある小さいショッピングセンターの一角にある靴屋を選んだ。
しまむらとマツキヨに挟まれていて、子供に大人気の瞬足や2990円の平凡なパンプスや、お父さんが履きそうなナイキやアディダスなどの最新のモデルじゃないスニーカーたちが並んでいるその店で何回かサンダルを買ったことがあった。
時給850円、交通費支給、髪型自由。
上品でキビキビした65歳位のおばあちゃん店長に面接されて、合格した。
数日後、無事に働き出したのはいいのだが、やはり手の震えや人と対面する時の不安感が治らなかった。
店長に、もっと大きな声でいらっしゃいませを言ってくださいね。と、上品に諭された。それは、一緒に働いている人に自分はどこにいるのかを知らせる目的もあり、防犯対策にも繋がります。と理論的に説明を追加した姿は、若い子と働くことに慣れているからなのか、店長の性格なのか、まるで先生のようだった。

どうすればいいか分からない中、休日にたまたま髪を切ってもらいに行った美容師さんになんとなく悩みを相談していた。この6つ上の美容師さんが物腰柔らかくて、知識豊富な聞き上手に見えたのはもちろん、この美容室に来なければ、二度と会うことはないであろう事実が妙な安心感をもたらし、近い人には話せないようなこともベラベラを話させた。
美容師さんは優しい眼差しで、まるで明日の天気についてでも話すような声のトーンで、知り合いも不安障害があり、心療内科で薬をもらっていたから一度病院で診てもらったら楽になるかもと教えてくれた。

早速、駅前通りのビルの2階にある心療内科に足を運んだ。
入口の手動ドアが開けた瞬間、1つ、ラインを超えたような気がした。
待合室はすごく居心地が悪かった。
お互い見て見ぬフリをするのが正解のような雰囲気だった。
受付の女性は普通より優しい声を使って対応することを気をつけているような話し方をしたが、それが妙に機械的だった。
順番を待っているのは、”普通”の人たちだった。普通の服を着て、普通の髪型をして、普通に座っていた。でもどこか諦めたような表情をしてる気もした。
50代の先生に、不安が辛いというよりも、不安からくる身体的症状が辛いと打ち明けたら、泣きたかった訳じゃないのに涙が出てきた。看護婦さんが、箱のティッシュを差し出してくれた。
15分にも満たなかった気がする。
先生は、社会社交障害と書かれた三つ折りの冊子をくれた。
SSRIという薬と、アルプラゾラムという抗不安薬を2週間分出すので、2週間後に再診するように、と言っていた。

処方されたその日から薬を飲み始めた。母親に話したら、心配するでもなく、反対するでもなく、へー、と不思議そうな顔をしていた。
夜中に胃がムカムカして何度も吐きそうになった。でも次の日、手が震えなくて、なんとか変に思われずに仕事ができそうだった。
でも数日で、大体4、5時間で薬の効果が薄まり始めてきて、薬の効果が薄まり始めそうな時、不安が増すことに気づいた。そんな時はレジカウンターの下に入れてある鞄に手を入れて、こそっとポーチから1錠薬を出して、バレないように口に入れた。震えや赤面など身体的な症状は止まったけれど、不安感や自分の人生を生きていないような感覚があって、モヤモヤしながらあっという間に2週間が過ぎた。
同じ病院には行かなかった。駅前は家から少し遠いし、駐車場を探すのが大変だからだ。
家から一番近い近い病院に行ったら、バインダーに挟まれた問診を受付で渡された。
生きているのが辛い
将来、なんの希望もないように思える
自分は無価値で、人生には意味がないように思える
夜眠れない
などの質問が50問ほどあって、常にそう思う、時々そう思う、しばしばそう思う、どちらでもない、そうではない、の5択から選ぶ解答式だった。
目にチックのような症状がある70代の先生が今私が飲んでいる薬はどうか聞いてきて、私は、最初吐き気を感じたが、身体的症状が治まって以前より楽に感じる、と答えた。不安が始まった経緯などは聞かれなかったから話さなかった。短い時間で自分の気持ちや症状を応えるのは難しいことに感じた。
問診の結果からすると、私はややうつ病らしい。
夜寝る前に、色々考える癖があり、寝つきが悪いことを説明したこともあって、先生は、SSRIをやめて、抗うつ薬の量を2倍にするのと睡眠導入剤を眠れない日に飲むことを提案した。

数年後に知った噂で、この先生はすぐに薬をを出すことで有名だったらしい。
これがここから10年以上苦しむベンゾジアゼピン依存の始まりだった。





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