対話実践表の詳細と対話者の能力について
目次
第1部 対話実践表の詳細について
対話実践表
1.1 議題・質
1.2 議題・量
1.3 議論・質
1.4 議論・量
第2部 対話実践表と対話者の能力について
2.0 序
2.1 議題・質
2.2 議題・量
2.3 議論・質
2.4 議論・量
2.5 補足 対話者の能力について述べることは不本意であること
<1部 対話実践表の詳細について>
対話実践表に挙げられた言語表現の事例についての説明が不足していることが指摘されたので、その点について補足をしておく。
理解を促すためには、ここに挙げられた、「問い」とか「答え」とか、「単義」とかが、その右に示された言語表現と結びつけられるような、対話の反省的なフレーズを念頭に置いてもらうのがよいであろう。対話についての反省は、もちろん、対話の時間のうちで行われることもあろうが、そのことは例外的であるとして今の考察からは除いておく。対話についての反省というのは具体的には、対話をした後で、その対話について振り返りをすることである。その振り返りを再び対話の形式で行うことはメタダイアローグなどと言われることもあるが、必ずしもそうでなくとも限らない。あの人がああいった、とかこの人があんな問いを出した、とかいうことを再び考えてみることが、反省である。この反省に際して、どのような言葉遣いであったか、どのような働きをしていたか、のパターンを見つけることができるわけであるが、そのパターンのうちのあるものは対話の本質に直結しており、あるパターンのものは対話に直結しているのではなくて、その時間のうちで起こったに過ぎないとか、対話に付随的に起こったものであるとかいうことがある。私は、そのパターンのうちの根源的なものは12に限られる、ということをここで言っているのである。対話の時間や対話の空間あるいは対話者の心のうちで起こることはもちろん12以上のパターンがある。しかしながら、それらは対話の本質にとっては残念ながら重要なことではない。ここで言われているのは、もっぱら、対話と言えるためにはどんなパターンでなければならないのか、ということである。どんな個別的な対話であっても、ある一定のパターンが見出されるが故に我々は、ある言語活動を対話といい、あるものはそうではないと言うのであり、我々はそのパターンを確実に知っているのであるから、そのパターンを数え尽くして対話だと言えることの条件を明確にして描き出し、対話だと言えるかどうかわからないものとの区別を明確にしなければいけない。対話といいうるものが完全に確実でないうちには、対話と言えるかどうかわからないものについて考えることは無意味であろう、なぜなら対話と言えるかどうかわからないものは対話でないと言えるかどうかもわからず、もしもそうならどうして対話でないものを積極的に一生懸命に理解しようとしないのか、わけが分からなくなるからである。当然、そんなことを明らかにしても対話が明らかになるわけではないのだから、対話であることをシンプルにストレートに明らかにしなければならないのである。このことについて答えることに、何の躊躇もいらないし、他のものとの接続とか、他分野への目配せとか、流派の違いを考慮するとか、そう言ったことはもうやめて、ひたすら対話の本質を明らかにせんとのことに盲目になるべきなのである。
1.1 議題・質
1問い まず、「幸福」という事例を取り上げよう。そして、そこで誰かP1が「幸福ですか?」という言葉を用いたとしよう。そうすると、「ですか?」というのが疑問を表すから「問い」であると分類できる。さらに、「幸福」ということについて疑問を出しているので、その疑問文によって、「幸福」ということが話題となっていることもわかる。この話題が、対話実践表でいうところの議題である。我々は、以上のことを、対話の最中には意識していなくとも、対話を反省する時に明確に意識する。すなわち、「P1は「幸福ですか?」と問いを出した」と反省することができれば、対話で実践されていることを形式に当てはめて理解したのである。すなわち、反省に置いて、何についての問いであったかといえば、「幸福」となるのであり、このことによって我々は議題を理解している。つまり、反省のフレーズにおいて、問いが何についてであったのかに関心を持つとき、それは「幸福」であるから、これを「何=hoti」というのである。
#ところでこのように 、反省のフレーズにおいても、対話実践の際にも、我々は問いと答えとの形式を用いるのであって、それらが何ら形式としては変わらないからこそ、対話を反省することができる。この反省のフレーズに突入するある契機ももちろん解明されねばならないが、ここで、P1が「幸福ですか?」と発話したことが、「P1が「幸福ですか?」と発話した」と書き換えられることにおいて、人称と時制とが現れていることは注目すべきであろう。すなわち、人称や時制が実際の発話の文に加わるとき、我々は対話が反省的なフレーズに突入したということができるかもしれない。
2答え 「幸福ですか?」という言葉遣いを少し変えて、「幸福です」という言葉が用いられたとしよう。そうすると、「です」というのが断定を表すから「答え」であると分類できる。これが、反省のフレーズにおいては、「P1は「幸福です」と答えた」ということになるであろう。
3問答 「幸福ですか?」「幸福です」という問いと答えとが結合するとき、ここに「幸福」という話題が共通に現れ、ある人はそれを問いとして提出し、ある人はそれを答えとして提出したことがわかる。その共通なものこそが議題なのであるが、問いと答えとによってそれが完全に遂行されたとき、それを「問答」という。だから、問答の例は、「「幸福ですか?」「幸福です」』というものになる。
#議題の質についてもう一つ言っておかねばならないと思われるのは 、どうしてとりわけ問いと答えと問答という区分なのか、ということであろう。これには端的に我々の今の関心ごとが対話であるからと答える。もしも対話でなくて我々の関心ごとが論理や認識や自然というものであったならば、肯定と否定と限定とかの三つの区分でもよかっただろう。またもう一つ付け加えるなら、問いと答えを全く何も想定しないで、対話ということができないということから理解してもらえることであろう。
1.2 議題・量
議題の量について理解してもらうために「あるXはYである」「多くのXはYである」「すべてのXはYである」という言語表現の形式が対話についての反省のときに用いられることを考えてもらいたい。つまり、XにもYにも、議題となる語が入るのでなければならない。先ほどの例に「幸福」を用いたが、そのようなものである。
以上のことをもっと具体的に説明しよう。例えば次のような対話において、幸福について次のような三つの問答がなされたとしよう。
「幸福とはどんなものだと言えるか?」「カクカクである」
「幸福とはどんなものだと言えるか?」「シカジカである」
「幸福とはどんなものだと言えるか?」「コレコレである」
以上の三つの問答を振り返って、「幸福は三つの仕方で言われている」というのならば、幸福という議題の合義性を明らかにしたことになる。つまり、我々はこれらの幸福についての問いがなされ、三つという定まった数で答えが与えられたからである。だから、この問答によるのならば、「幸福とは、カクカクであり、シカジカであり、コレコレである」というふうに言えるわけである。もちろん、「幸福とは、カクカクであり、シカジカであり、コレコレであり、三つの仕方で言われるのである」と言っても同じである。
さて、以上のように問いと答えが非常に明瞭で、幸福ということに関して何らかのことを述べようとしているときには、その述べられることの数が定まったものであることは理解しやすい。しかしながら普通はそのようにはいかないのであって、幸福について述べられることが一度だけあるとか、あるいは何度も言われたとか、そのようなことを漠然と把握するということがしばしばであろう。そういうような事情でもやはり対話されている話題が一つだけなのか、あるいは多くのことなのかという区別はできるのだということで、私は単義と複義とを区別したのである。すなわち、様々な問答があるなかで、幸福という議題は一度だけ問いと答えがなされうるようなものとなったと言えるのならば、幸福という議題は単義的な議題である。また、幸福という議題の5回とか10回とかいうことはできないが、多くの問いと答えを生起させたような議題であるならば、複義的議題なのである。我々はだからそのようなことをもって、「幸福(という議題)については、シカジカであると一つだけ規定が与えらえた」というような反省的契機を簡潔に示すものとして「あるXはYである」という言語表現を例としてあげた。また、「幸福(という議題)についてはアレコレ、ドレソレであると多くの規定が与えらえた」についても同様に、「多くのXはYである」という言語表現を例としてあげたのである。
1.3 議論・質
議論の質について理解してもらうためには、先述の議題・質についてやはり十全に理解してもらっている必要がある。(というのはそれと類比的な関係になっているからである。また、その類比の関係を示すことが目的で、対話実践表はあのような仕方で書かれている。)そして、そのことを理解してもらえるのならば、話題が論じられるその過程のことが議論と言われていると理解してもらうことができる。
例えば、「アレクサンドロスは幸福であるか」ということについて論じる理由と、「アレクサンドロスは幸福である」ということについて論じる理由には違いがある。そのことを言い換えると、「アレクサンドロスは幸福であるか」という問いを立てるのにすべき議論と、「アレクサンドロスは幸福である」という命題を立てるのにすべき議論が異なるということである。「アレクサンドロスは幸福であるか?」という問いを立てるためには、アレクサンドロスが幸福であることを示す東方への領土拡大の事例1と幸福ではないことを示す熱病による急逝の事例2を示す必要があるだろう。対して、「アレクサンドロスは幸福である」という答えを出すには、上述の事例1だけを示すことによってだけでもよい。
以上のような二つの区別、つまり問題を立てることと命題を立てることとの区別は、「アレクサンドロスは幸福なのか、どうなのか」ということのうちの二つの区別である。言いたいことは、「アレクサンドロスは幸福であるか?」と問いが立てられ、「アレクサンドロスは幸福である」との命題が立てられることは、それぞれ「アレクサンドロスは幸福なのかどうか」ということを議論していることの一部なのである。そしてそれらの部分がきちんと組み合わせられることによって、「アレクサンドロスは幸福であるか、どうなのか」をきちんと議論したことになるし、きちんと議論したとはどういうことであるかといえば、その対話のうちで十全に理由を挙げ得たということである。
1.4 議論・量
議題の量について理解してもらうためにも、また、先述の議題・量について理解してもらっている必要がある。そこで、議題が定められた数だけある=合議的議題の言明が、「幸福とは、カクカクであり、シカジカであり、コレコレである」と言われている。これについて議論の量ということを説明すると、おそらくは非常に一般的に分かってもらえることと思う。私の個人の体験と考察についていえば、これから示す3つのことを常に対話において整理することを意識することと、問いに対して答えるということを実践したということが、この対話実践表の完全な形にまで導いたのである。
「幸福とは、カクカクであり、シカジカであり、コレコレである」というのは、それぞれの問答を反省して一文で言い直したときの言語表現である。それで、「であり、…であり、…であり」という言葉に注目してもらいたい。それが意味することを、論理学の用語で言うことにするといくつか候補があろうが、少なくとも二つには区別したいということで、「かつ」と「または」であるとするしよう。それで、「であり」というのを「かつ」と理解するなら、「幸福とは、カクカクかつ、シカジカかつ、コレコレ」(A)ということになる。「または」と理解するなら、「幸福とは、カクカクまたは、シカジカまたは、コレコレ」(B)ということになる。
さて、そうすると、Aというのを問答にまで引き戻して考えてみると、幸福という話題に関して、「カクカクである」と言った人は、幸福についての一つの論点を挙げて答えたということができるだろう。「シカジカである」と言った人も、「コレコレである」と言った人も同様である。
Bもまた問答にまで引き戻して考えてみると、幸福という話題に関して、「カクカクである」と言った人は、幸福ならば、「カクカクである」と論脈を踏まえて答えたということができるだろう。「シカジカである」と言った人も、「コレコレである」と言った人も同様である。
こうした上述の二つには共通に、「カクカク」「シカジカ」「コレコレ」との関係は全て同じであると想定されている。しかしながら、問答が連なるその仕方は、「カクカクであり、シカジカであるが、コレコレだ」とか「カクカクなので、シカジカだが、コレコレだ」のようなことが普通なのであって、上述の二つが組み合わせられており、そのことによって問答は全体として連合しているのである。だから、あるまとまりXはX’なのであり、別のものYはY’であり、、、というふうに整理されるとき、その対話の生起する限りにおいて究明しようとしていることの議論を完結させる。そのことが、ここでは論究と言われているのである。
<2部 対話実践表と対話者の能力について>
2.0 序
以上のような詳細な説明を加えたものの、それらの全部をわかってもらえるまでには多くの苦労を要するであろうことを否定できそうにない。だから、対話の参加者(対話者ということにしよう)の能力に言及することによって、対話実践表の有用性を示そうと思う。このとき、対話実践表はこのときすべての対話者に共通のものであることが前提であり、また対話実践表が関わるのは対話の内容なのではなくて対話の形式にもっぱら関わるのである。これらのことを詳細に語り始めるとキリがないからもうここまでにしておこう。
2.1 議題・質
対話者がある発言を与えられたとき、あるいは対話者が何かを発言しようとするとき、疑問文という形で発話するのか、それとも平叙文という形で発話するのか、そのことの区別ができるのでなければ、そもそも対話することができないだろう。というのはそのことが意味するのは、問いかける仕方を何も知らず、答える仕方を何も知らないということになるからである。では疑問文や平叙文という形を用いて発言することができるのはどうしてなのかといえば、対話者は疑問文でも平叙文でも表現されることの可能なものを知っているからである。それが話題であって議題と呼ばれたものである。そのことはつまり、議題について問いを出すことができ、また議題についての答えをなすことができるということなのである。
対話者がすでにして話題のことを知っている場合に、対話しようとするのならば、最終的な答えが何であるかということとは別に、何らかの答えが可能な形で質問をするであろう。もしもそうしないのならば、それは対話ではなくて責任を追及するような言語行為とみなされてしまうであろう。また、議題が何かを知っている対話者は、その議題についての質問に対して、「答えられない」とさえ、応答することであろう。そうすることによってはじめて対話が成り立つからである。もしも一切何も応答しようとしないなら、それは議題があることを全然知らないから対話をする能力がないとみなされるであろう。
2.2 議題・量
対話者が議題の量を把握しているとはどういうことであるのかといえば、例えば、ある議題についての多くのことが言われているということを把握することである。また、ある一つの問いに対して、多くの答えがなされることを知るということでもある。以上のことは逆にも言える。多くの問いや答えがなされたときに、それがある一つのことに即してであるということを理解する対話の参加者は、対話においてその議題が一つに絞られるということを理解しているのである。それと同様にまた、一つの問いと答えに即して、多くの議題が生じてくることを知っているとしたら、対話において議題が複数あるということを知っているのである。
一つあることと多くあることを知っているというだけでは、ある意味では漠然としている。対話において、一体どれだけの数だけ議題があり、それがどの問いや答えと連関していたのか余すところなく知っているのならば、限られた数だけの議題を完全に把握しているということである。これが本来議題の量を知っているということである。
2.3 議論・質
議論の質を知っているということを、私は話題についての理由付けを行うに際して、問いを立てようとしているのか、問いに答えるであろう命題を確立させようとしているのか、ということの違いを区別していることであるとみなす。すなわち、話題に対して問いを立てる理由と、答え(主張)をする理由とを間違えないという能力がなければ、対話者は議論をすることができない。例えば「幸福であるか?」という問いが成立することの理由と、「幸福である」という答え(あるいはそのような主張)が成立することの理由は明らかに違うのは誰もが認めることであろうと思われる、対話をしているときには。
そこで、問題と命題が両方立てられるとは、問題と命題とが共通にしていることについて、理由をあげるなどする議論が成り立つということであり、このことを論題ということにする。「幸福であるか?」という問いが立てられ、「幸福である」とのいう答えもまた立てられたならば、これらによって、「幸福であるかどうか」ということの理由があげられるような議論がなされたということである。
2.4 議論・量
議論の量を把握しているということは、少し奇妙な言い方であるかもしれないが、議論されていることのつながりを切り離して捉えるのかそれとも連続として捉えるのかということの能力である。すなわち、ある多くのことを論じているとき、つまり多くの問答があるとき、そのうちの一つをとりあげその他のものをすべてを捨象するという能力は、論点を把握する能力である。それとは逆に、多くのことが論じられているのは、これまでは言われていなかったある一つの文脈のうちにおくというような能力が、論脈を把握する能力のことである。こうした論点と論脈とをによって成り立っている対話の全体を見渡す能力が、その対話がどれだけの根拠を持って何を明らかにしようとしているのかという論究を可能にする能力である。
2.5 補足 対話者の能力について述べることは不本意であること
さて、以上のように、対話実践表について理解してもらえる説明をするのに、対話者の認識能力に訴えることは、私の本意ではない。なぜなら、対話実践とは対話を認識することではないからである。無論そのように考えることもできるし、そのように考えて体系的に対話を説明する試みは対話の認識論が担うべきである。この違いを気にする人は少ないかもしれないが、私にとってはこの違いに敏感でないことは、すべての観念論の軍門に下ることを意味するのであり、それだけはどうしても避けたいところなのである。といってもおそらくは誰もその意味がわかるまいから、とにかく、対話者の能力に、しかも対話者が対話を認識する能力に訴えて行ったここでの説明は、人々の理解を促す目的のためだけになされたということだけを強調しておきたい。
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