『ウソつきの構造』からの考察


『ウソつきの構造』〜法と道徳のあいだ〜 中島義道 角川新書 2019年10月
アマゾンのリンク

 哲学の領域に限っていえば、著者によって何度も繰り返し論じられているテーマが再び扱われているのであるが、今回の著書では人々の関心を集めた政治や社会の問題に即して論じられている。その点で、哲学にあまり馴染みのない一般向けの著書と言ってよいかもしれない。一般向けということでどれほど広く読まれるのかは私は知らないけれども、無責任な予想を立てると、著者のファンとともに、いやそれ以上にアンチも増えるのではないかと思われる。

 本書の詳しい部分について知りたければもちろん本書を読めばよい。それでも分からなければ哲学塾カントに行って直接本人に尋ねるかすればよい。本書の概要についても、誰かが書いたまとめよりも、本書の目次が一番正確であるに違いなかろう。

まとめにかえて著書の目次

1章 ウソに塗れた法治国家
善意のウソ
客観的真理と内面的真実
外形的ウソと内面的ウソ
なぜ、「ウソつき」と呼ばれると怒るのか?
「法に守られたウソ」がはびこる理由
現代日本に言論の自由・表現はあるのか?
二種類の人種

2章 ウソが誕生する瞬間
ウソが誕生するメカニズム(その①)
ウソが誕生するメカニズム(その②)
信用を維持するためのウソ
内面的ウソと自己欺瞞
些細なごまかしの堆積
「端的な事実」から「法に守られた真実」への推移
パレーシア
朝カル事件の発端

3章 ウソが育っていく経過
リーガルマインド?
刑法における「行為」と責任帰属
自白の心理学
ウソつきの盾としての「人権」
予見可能性
個別的因果関係
復讐欲を無にはできない
イワン・カラマーゾフの話
和解と調停の破綻

4章 ウソと理性主義
ウソと法治国家
適法的行為と道徳的行為
真実性の原則と幸福の原則
無制限に善とみなされうるもの
「十歳の男児」でもわかること
根本悪
「嘘論文」
組織において弱い立場にいる人々
理性主義と感情
「真実」と「真実らしいウソ」
「ウソつき」の定義

5章 哲学(者)の使命
「よく生きる」こととウソ
幸福追求とウソ
ペテロの裏切り
スタヴローギンの告白
人間は最終的には内面的真実を求める

1 ウソと哲学対話

哲学対話にとっては4章と5章が注目に値する。
 4章および5章が特に読むに値すると思ったのは私がおそらくは哲学対話のことを考えているからであろう。ところで昨今、教育の場面で言われている対話だとか、オープンダイアローグなどの医療やケアの場面で言われている対話だとか、あるいはそれより敷居の低いワークショップと言われてもおかしくのない対話とかがたくさんある。哲学対話は、そうした対話とは一線を画すべきであるはずなのであるが、ではその哲学対話とはどのようなものか?その答えを考えるのには適切な材料を4章、5章は提供してくれているように私には思われた。
 材料というわけで様々なものがあるのだが、

「ウソつき」とは、自分が真実を語るとソンをする(被害を受ける)状況において、適法性をもってすべての規準とし、それ以上道徳性を追究することがない者、真実に対して「尊敬」を抱くことがなく、何にせよ法的に正当化されれば、それで問題はないとする者、しかもこのことに対してとりわけ良心の呵責のない者、すなわち心を痛めることのない者のことである。p177

と「ウソつき」がこのように最終的に定義されているところである。その後に病的な「ウソつき」の例の候補としてヒトラーがあげられ、ヒトラーはこの著書で考察される「ウソつき」の範囲にはないことが言われるが、実は私が最も関心を寄せるのは、ヒトラーのような人がつく「嘘」である。だが、それは今は置いておこう。 

子どもと「ウソつき」とは?

 「ウソつき」の定義が著書のようなものであることには私は異をとなえないのであるが、私の関心は、このような「ウソ」をつくことができるのは大人に限られるのかどうか、ということである。その点を著者はまったく想定していないし、著者がそうしたことに関心を持っていないことも確かだろう。この著書の中でも、それ以前にも扱っいる記憶が私にはないし、そう尋ねてみても著者が関心を示すとはなかなか考えにくい。したがって著者に問いただすのでなくて自分で考えてみなければならないわけだ。問いたいこととは、子どものように、まだソンやトクがどんなものであるかを身をもって知らないということがあるというのに、その子どもがいつしか自分が真実を語るとソンをするということを知り、さらに適法性をもってすべての規準とすることを体得する。これは一体どうしてなのか。私の関心事は子どもから大人へのこの過程である。ウソを体得する過程である。もっと言えば、私自身が大人になってしまいウソを体得してしまっていることに自覚があるが、一体それはどのようにして身についてしまったのか。それが私の問いたいことである。
 しかし、こう考えてみると、私の関心事は著者にとっても、また著者が紹介する限りでのカントにとっても、実は重要な論点となりうるだろう。というのは、たとえば真実は十歳の男児でも分かる、と言われている(pp.151-152)ことからも、推測されよう。1、2、3章ではウソがそもそも法治国家から成立することが言われている。その法治国家を成立させているのはすべからく大人である。とすれば、放っておけば法治国家など成立させるはずもなかろう子どもはどうなのか。法治国家を成立させウソのまかりとおる国家に安住する大人へと、子どもが、(他の)大人によって「教育」いや「教化」されてしまうのはなぜなのか。逆にいえば、一体大人は、どのようにしてソンやトクの計算をしない子どもを、子どもたちを、道徳を尊敬したりしなかったりすることが可能な大人へと教育していくのか。そんな真実を知っている子どもはいつ真実を忘れ、真実を知らないといい、ウソをつくようになるのか。これは先天的なことなのか。学習することなのか。一体そもそもどうしてそんなことになるのか。私の疑問はつきない。
 思うに、以上の問いに対して答えることが難しいことが、哲学対話が、そして哲学することが、難しいことの理由であるように思われる。いや、そもそもはそのような問いがあるということに気づくということが、たとえばこの著者にとってもそうであったように、難しいのである。

2 ウソつきと無知

 さて、以上で一つの区切りついたので論述を終えようと思っていたのだが、以前から気になっていた中島・カント倫理学において無知はどのようなことになるのか、ということに関して、とりあえずは一つ、ソフィストと哲学者とを論じたプラトンの著作から引用しておこう。

エレアからの客人 何ごとかを実際には知らないのに、知っていると思い込むことが、それだ。おそらくはこれによってこそ、われわれが思考においておかすすべての過ちが、すべての人々にとって起こるのだといえよう。
テアイテトス おっしゃるとおりです。
エレアからの客人 そしてまた、思うに、この種の無知だけは、無学(無智)という名前がつけられているのだ。
テアイテトス たしかに。
エレアからの客人 では‹教授する技術›のうちで、この種の無知を取り除くことを役目とする部門は、何という名前でこれを呼ぶべきだろうか。
テアイテトス 私の考えでは、お客人、その他の部門は職人的な専門技術の教授と呼ばれていますが、おたずねのその部門については、教育(教養)という呼び方が、われわれを通じてこの土地では用いられています。
エレアからの客人 じじつまた、テアイテトス、ほとんど全く全ギリシア人の間でそう呼ばれているのだよ。しかし…
229c, プラトン全集3 岩波書店 p42

ここには注がつけられていて、ソクラテスの弁明のあまりにも有名な箇所を参照することと言われている。それも引用しておこう。

つまりこの人は、他の多くの人たちに、知恵のある人物だと思われているらしく、また特に自分自身でも、そう思いこんでいるらしいけれども、実はそうではないのだ、と私には思われるようになったのです。そしてそうなったときに、わたしは彼に、君は知恵があると思っているけれども、そうではないのだということを、はっきりわからせてやろうと努めたのです。すると、その結果、わたしはその男にも、またその場にいた多くの者にも、にくまれることになったのです。
 しかしわたしは、自分一人になったとき、こう考えた。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男もわたしも、おそらく善美のことがらは、何も知らないらしいけれども、この男は、知らないのに、何か知っているように思っているが、わたしは、知らないから、そのとおりに、知らないと思っている。だから、つまりこのちょっとしたことで、わたしのほうが知恵のあることになるらしい。つまりわたしは、知らないことは、知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。そしてその者のところから、また別の、もっと知恵があると思われている者のところのへも行ったのですが、やはりまた、わたしはそれと同じ思いをしたのです。そしてそこにおいてもまた、その者や他の多くの者どもの、にくしみを受けることになったのです。
『ソクラテスの弁明』21C 新潮文庫p18

内面の真実性と無知の自覚

 カント=中島によれば、真実なることが内面では確立している。自らの考えたこと感じたことは、たとえ客観的事実とは相違する可能性が残り続けるとしても、語るだけの真実であり、またを(人間)理性はその真実を知っている。わたしの見るところ(といってももちろんフーコーやその他の人々の考えをいろいろ知ってからこう言っているのではあるので、私独自の見方であるというわけではないだろう)、これこそがおそらくはデカルト・ロック以来の近現代に特徴的な「自己」や「認識」のような哲学者の関心事として人口に膾炙しているものである。
 他方で、古代の伝えるところの無知は微妙であるが故に決定的に異なり、多くの人々には関心が寄せられないばかりか、ほとんど誤解されている、だけならまだしも、誤解されていることがなおざりにされたままである。近現代の言うところの自己や内面をどれほど反省したところで、知るというに値するものは何もない、ということだけは、自己や内面のうちで確実に成立する。これが古代の無知に関する洞察がソクラテス以来伝えるところなのである。何も難しい事柄を言おうとしたものではない。ソクラテスの弁明がいうとおりである。善美なる事柄に関して、まだ自分は何も知らないということくらいは自覚できる、十分すぎるくらいに。それだけの話である。近現代に至ってこのことをとくに一般人はなぜか自分が考えることに価値がある、などと、どういうわけなのか誤解して屁とも思っていないのが私にとっては腹わたが煮え繰り返るくらい苦々しいことを言添えておく。

根本悪の認識の成立根拠を尋ねないのはなぜなのか?

 カント=中島の枠組みに無理やり合わせて語るのを続けるのは 気が進まないのであるが、たとえば155ページから紹介されている根本悪について、たとえば根本悪に関する認識がいかにして可能か、と問えば、ソクラテスの言うところの無知の自覚を論じることに近づいたはずであろうと私は推測する。何もかもを反省の眼差しの俎上にのせ、超越論的ウンタラカンタラという仰々しい名前を与えるくせに、根本悪の認識根拠について黙っているのが不思議でならない。道徳に対する尊敬だとか真実性の優位だとか言ってくれても構わないけれども、それらのことが根本悪の認識へ向けられているのかどうかが最大の関心事にならざるを得ないのではないだろうか。実際、幸福への真実性の優位だの道徳への尊敬だのを論じることが、自説の押し付けでとどまるわけはなく、それに対して不信感を抱かせる以上に問いを閉ざす教理の強要になるかもしれない、という疑いをカント=中島がまったくもって自覚的でないのに私は驚きを隠せない。
 もちろん、視点を変えれば、無知の自覚を一切排除して、道徳に対する尊敬や真実性が幸福に優先することを論じたことが何か新しいことなのかもしれない。だが、カント学者でない限り、そんなことが重要だと感じはしないだろう。

3 結論?

 結論といってまとめるほどのことはもちろんない。実際、以上に思考した過程こそが重要であるから。とはいえ、以上の思考の過程を、ふたたび辿り直すのに有用なことは短く言えるかもしれない。『ウソつき構造』を哲学対話の視点から読むならば4、5章が重要であること、そして私が提起した問題は、ウソつきになるように教育されるのはどのようにしてなのか、であった。その次に、ウソつきと無知はどれほど関連しているのかの問題を提起した。それに対して、根本悪の認識根拠を問わないことが無知の自覚に対する考察とそぐわない、と答えた。振り返れば以上のような流れをみることができるかもしれないが、果たして本当にそうなのか、どうか。

対話屋ディアロギヤをやっています。https://dialogiya.com/ お「問い」合わせはそちらから。