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子どもの哲学とは何でないか

1 子供のときに抱いたあの問いを、これから思い出してしまうかもしれない。

もしかしたら、誰だって、子供のときに抱いたあの問いを、これから思い出してしまうかもしれない。
https://twitter.com/mstnrt214/status/1191757895823527936

これは、子どもの哲学の一つの解釈であるところの「私の子ども時代の哲学」を表現するものとして、極めて適切であると私は強く主張したい。ツイート中に使われている諸表現「もしかしたら〜かもしれない」とか「これから」とか、「誰だって」とか「あの問い」の「あの」とか「してしまう」とかがことごとく適切であると私は思う。しかしながら、だからといって(いや私としては「だからこそ」なのだが、それはともかく)、「私の子ども時代の哲学」は人々が無反省にそれを肯定的なものととらえるような片面だけでは決して完結しない。その片面とは「私の子ども時代の哲学とは何か」の問いに凝縮されると言えるが、私があえてでも強調したいのは、その片面の裏面であるところの、「私の子ども時代の哲学とは何でないか」という否定的な側面である。これらのことを私は、私の子ども時代の哲学の着想をえたマシューズの引用から示してみたいと思って十日くらい経ってしまった。なので、もはや何もしないで、そのまま以下に記しておく。

2 社会化されるにしたがってやめてしまった過程を十分に自覚することが不可欠である

合本版『子どもは小さな哲学者』G・B・マシューズ p7 はじめに
 わたしが最初に幼児の哲学的思考に興味をもったのは、どうしたら大学生に哲学入門コースをうまく教えることができるのだろうかと思い悩んでいるときだった。哲学するのはごく自然な行為なのだという考えに、多くの学生は抵抗を感じるらしかった。学生たちの抵抗感にたいして、わたしはある作戦を思いついた。かれらだって子どものころすでに哲学していたのだということを、学生たちに示したらいいのではないか、と考えたのだ。かつてはごく自然なこととして楽しんでいたのに、社会化されるにしたがってやめてしまった活動へと、学生たちをふたたび導くことが、大学の哲学教師としてのわたしの責務ではないかーーこんな考えが頭に浮かんだのである。

 「かつてはごく自然なこととして楽しんでいた」活動をふたたび取り戻すことを純粋に行う(philosophy brut?)ように努めることの重要性は言うまでもないから、いまは置いておく。大人になってしまった学生たちや、大学教師にまでなった大人たちや、もちろんその他ともかく大人になってしまった人たちにとって、ごく自然なこととして楽しんでいた哲学を、大人のままで取り戻そうとしてしまうことすなわち大人の自然さに対する執拗な注意が必要である。何の注意もしなければ、大人のままその活動を取り戻した気になって手のつけられないオジサンオバサンを育てることになってしまうからである。そのことを避けるためには、社会化されるにしたがってやめてしまったその活動そのものを取り戻すことと並行して、社会化されるにしたがってやめてしまった過程を十分に自覚することが不可欠である。前者には努力はいらない。それどころか「自然に」できるので何も意図してするようなことはない。だからこそそれは大人にとって難しいし、それが後者がひどく面倒で忍耐のいるものである理由であろう。多くの人が、それには私自身も含まれていようが、社会化されるにしたがってやめてしまったことの理由を突き止めないままにしていたり、一つや二つ程度突き止めただけで突き止め終えたつもりになっている。楽なこと楽しいことであるような、あそびをしようとばかり考えて、つとめを果たそうしない理由を作り出したりし始めるのである。そうしたことを自覚すれば軽減はされるが、自覚しないでいるとどうなるかが、昨今の哲学対話をとりまく状況である。

3 大人は、いかにして子どものように哲学することができなくなったのかを問わねばならない

 重要な点を繰り返しておこう。「社会化されるにしたがってやめてしまったその活動そのものを取り戻すことと並行して、社会化されるにしたがってやめてしまった過程を十分に自覚することが不可欠である。」と私は言ったが、これは次の二つを問うことと要約される。いかにして子どもように哲学することができるか、が一つである。もう一つは、いかにして子どものように哲学することができなくなったのか、がもう一つである。私はマシューズのようにいかにして子どものように哲学するか、とのストレートな問いをすることを大人に対しては認めない。大人がその問いをするには、いかにして子どものように哲学することができなくなったのかを問わねばならないと私は主張するのである。その理由は、どれほど「子どもの哲学者」が少なく、どれほど「子どもの哲学者について語る人」が多いかかという事実を指摘するだけで足りよう。それでも足りないと思われるのならば、大人である私自身が、子どもの哲学をこれほどわずかにしかしていないで、子どもの哲学を語ることをこれほどたびたびなしていることをあらためて自己申告してもよい。
 ところで、なぜ大人は子どものように哲学してはならないのか。大人のなかにも子どものように哲学することができるものはいるではないか、というような反論(?)は取り上げるに値しないとあえて挑発的に無視すべきなのであるが、そのような理由を尋ねてくるのが大人でしかありえないことに注目するとよかろう。そういう問いは子どもから発せられるものでは決してなく、それゆえに子どもの哲学者の問いではない。所詮「メタ」レベルや「反省」レベルで子どもの哲学を語っているにすぎず、子どもの哲学を実践しているのではないのは明らかであろう。

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