超越者と捕食者について。『ドンファンの教え』を読む。
広告代理店に勤めていたぼくが、むかしむかし、女川で感じた無力感と虚無感ついて先日書きました。心にしまっていたものを取り出して眺めてみました。
そこに後悔はありませんが、いまだに自らの無力を感じます。理不尽な現実は極めて強固で巨大であり、どこから攻めて行けばこの現実を覆せるのか、ぼくはいまだに途方に暮れてしまいます。本当はこうしてあげられたら、あるいはこうできたらいいのに、とぼくの心は叫びますが、実際にはどうすることもできない。この弱虫め、なんとかできるだろう!と誰でもない誰かの声が聞こえますが、やはりどうすることもできないとわかるのです。それは「ぼくたちを押し流そうとしている恐ろしいなにか」をぼくは感じられるからだと思います。
「強欲」は太古から忌避される概念ではありました。いま世界を見ると多くの問題はこの「強欲」から引き起こされているように思います。その数わずか1%にも満たない富裕層が、世界の富の大半を所有しています。そして使い切れないほどの富をいまも増やしており、これからも増やそうとしています。それは宿命的に弱者あるいは無知者からの収奪によって行われています。本来、人はこうした非道な行いを止めることができるはずです。しかしいまの世界は全体がこの強欲に支配されていて、もはやブレーキをかける主体を喪失しているように感じます。人間を制御するものを仮に「神」と呼ぶとすれば、この状況を変えることができるのは超越者たる「神」だけではないのか。そんな風にすら思えます。
「ぼくたちを押し流そうとしている恐ろしいなにか」と「強欲」は同じ種類のものだと思えます。そのなにかについて、もっとも明快に表しているのは、メキシコの呪術師ドンファンとそれを取材したカルロス・カスタネダの著作のいくつかだと思うのです。
ここでドンファンは「捕食者」という概念を語ります。
このイマジネーションは衝撃的だと思います。人間の愚かさは「外部から操作されているからだ」という指摘には荒唐無稽でありながら、芯を喰ったなにかをぼくは感じるのです。本来の人間の精神についてもドンファンは語ります。
ぼくたちの深奥に正しい心が潜んでいても、それは捕食者によって乗っ取られているからもうどうしようもないのだ、とドンファンは言うのです。ぼくたちにあるのは絶望です。
子供は捕食者を見たり感じたりした経験があるのだ、ともドンファンは言います。ぼくも思い当たるふしがあります。昭和の子供にとって、夕方の家路はうすら寒い、怖いものがありました。このまま帰れないような。だれかに攫われてしまってもおかしくないような。そんな怖さがいつも近くにありました。ウルトラセブンもバロムワンもミラーマンもいろいろな敵と戦っていたのですが、ふとその敵が実はすぐ近くにいるのかも知れない、と感じて背筋が寒くなる感覚を、子供の頃のぼくはいつも感じていました。最近でも「寄生獣」や「亜人」等のモチーフ、「GARO」におけるホラーなどに同じ恐怖の匂いを感じるぼくがいます。ドンファンの言う「捕食者」がその恐怖と近いものなのかどうか、まだわかりません。しかし、そういうなにか「大きなおっかないもの」が存在しているという感覚はどこかに必要な気がしています。
いわゆる超越者、すなわち神を想定することで人間はすこし謙虚になることができたと思いますが、21世紀を迎えた今日、超越者は既にひとの集団が信奉する偶像に過ぎず、超越者として恐るべき権威を発揮してはいないように思います。そしていま、「捕食者」がその力を増しているように感じられます。ぼくたちはこの「大きなおっかないもの」「捕食者」から身を守ることはできるのでしょうか。ドンファンはさらに言います。
ぼくたちは自らを鍛錬するしかないようです。でもそれはぼくたちひとりひとりの精神を守る、ということでしかないでしょう。ぼくたちが住む世界がどうなっていくのか、ぼくたちは実際に見る以外に方法がないのかも知れません。
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