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私とあなたを隔てるもの(往復書簡12)

(前回の坂中さんの書簡からの引用)
なぜ短歌が好きになったのかなと考えたとき、短歌は窓に似ていると思いました。知らない人の目や耳や皮膚をとおした感覚が認知と言語で変換されて差し出されている。誰かの家に遊びにいくときみたいに空間が新しく構築される。

「短歌が窓に似ている」という話、とても興味深く読みました。確かに、人によって感覚の切り取り方が違うこと、そしてそれを覗くことができる、という点で窓みたいだなぁと思います。

雨宮から見咲子さんへ

私にとって窓がどういうものか考えるにあたって、自分が窓から見る好きな景色を考えてみました。

ひとつは、夜の新幹線から見る景色。光が次々と飛び去っていくのは見ていて気持ちがいいし、外に人の姿はほとんど見えないから、この世界に誰もいなくなってしまったかのように感じることもある。高揚感と終末感が同居するような感じ。乗客がたくさんいるとそういう気分にはなりにくいので、あまり人が乗っていない方が好きです。

もうひとつは、雨の日の車の窓から見る景色。打ちつける雨粒の動きは見ていて飽きないし、外では何もかもが濡れているのに、車の車体、そしてその一部であるガラス窓一枚隔てただけで自分はその影響を受けないまま雨に煙る景色をずっと見ていられる。ちなみに私は車の免許を持っていなくて乗る専門なのでこういうのんきなことを言えますが、運転する側としては雨は嫌だろうなと思います。

この傾向から考えるに、私にとっては窓によって「隔てられていること」が大事なように思います。目に見える外で起こっていることを一応は自分に関わりのないこととして考えて、いつまでも見つめていられる。

一方で当然のことながら窓にはそれを開け放つことで外界と繋がるという機能もあります。そうすることで今まではただの傍観者として見つめていた外の世界と無関係ではいられなくなるわけですが、いざとなったら自分の気持ちひとつでそれを決めることもできるわけです。

「外が見えること」「外と隔てられていること」「外に向かって開け放てること」。当たり前と言えば当たり前なのですが、あらためて考えてみると、こういった窓の機能は、見たものによって人の心が内にこもったり外に向かって開かれたりすることと重なります。「窓を閉める」「窓を開ける」と言うだけでも、心の動きの比喩表現になりうるくらいに。

坂中さんも『窓は目とか心とか、いろんなものの比喩になっている』と書いていましたが、それは窓の機能を考えてみればうなずけることだなと思いました。

あまりまとまっていない気がしますが、私の窓についての話はこのくらいにします。見咲子さんはどんな場所にある窓が好きですか?あるいはどんな景色を見るのが好きですか?

夜と窓  雨宮真由
窓に映る距離が近くて言葉にはしない気持ちを互いに知りぬ
すすめられた映画の話 それぞれの窓から見えるものを重ねる
窓の外を過ぎるあなたは別の人 少し私が残っていますように

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