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家事の連作へのコメント

前回の連作に対して、3人が互いに他のメンバーの歌にコメントを書きました。

雨宮真由「普通の人生」へのコメント

斎藤見咲子より

鼻歌でも歌いながら皿を洗ってその後全部叩き割りたい/雨宮真由

一読して、「わ、わかる~」となりました。
なんだろう、あの皿洗いのむなしさというかいらだちというか。
料理のなかで一番めんどくさい行為が皿洗いなのでは?
1コマ目でふんふんふーん、と皿を洗って、
2コマ目でガシャーンガシャーンガシャーン!!!って叩き割る、
みたいな理不尽2コマ漫画のようです。

雨宮さんの歌の静かな狂気や暴力性が好きなので、この歌を読んだときは興奮しました。
ああ面白い。

洗い桶に皿を沈めて来世には言うべきことを言う人になる/雨宮真由

こちらも皿洗いの歌ですが、一転して切ない。
こびりついた汚れを落とすため、水につけなくてはならない。
自分は自分の中にある言うべきことを言えないでいる。
水の中に沈んだ汚れた皿を見つめながら、心の中に言葉を沈めている人は、
いつかそれを言えるのだろうか。
来世ではなく、今、言えますようにと願わずにはいられない。

念入りにかけるアイロンこの服でものすごい嘘をつきにゆく/雨宮真由

念入りにアイロンをかけるということの、これもまた静かな狂気がいいですね。
そんなに何度もアイロンをあてたら布が痛むぜ、と思いつつ、
そこにこめられた思いの強さに惹かれます。
どんな嘘をつきにゆくのだろう。その覚悟はどれほどのものなのだろう。
とても真面目な顔でアイロンをかけているのだろうな。
私たちは真面目に必死に狂って生きてゆかねばならないのかもな、と思いました。

坂中真魚より

洗い桶に皿を沈めて来世には言うべきことを言う人になる/雨宮真由

「洗い桶」という古風なアイテムが目を引きました。
そういう一種正統的な手続きでお皿を洗う人が「言うべきこと」を秘めている。
お皿を洗うときって俯くからか、少し内省的になるよなと思います。
水に沈んだ汚れと、心中の沈殿がくっきりとリンクして「来世」の遠さにめまいがします。

本当の望みから目を背けたままありもので作る普通のご飯/雨宮真由

「普通のご飯」が強い。普通のご飯、と言われて想像するものは
読者の育ちによって異なってくるはずなのですが「ありもので作る」の誘導によって
素朴な方のメニューに調整されていて、主体の家事能力の高さやルーティンの生活をかなり正確に想起させられる。

念入りにかけるアイロンこの服でものすごい嘘をつきにゆく/雨宮真由

「ものすごい嘘」が好きです。
アイロンの圧の強さと、シワもスキもなくパリッと仕上がった服の迫力。
私自身はあんまり自覚して嘘をつける方ではないので、どんな嘘にせよ
入念な準備と覚悟をもっている主体がかっこいいなと憧れます。
嘘をつかれた相手が信じてくれるといいな。

斎藤見咲子「ごみ捨てる」へのコメント

坂中真魚より

にんじんの皮って食べたほうがいいらしいと思いつつ皮をむく/斎藤見咲子

「〜したほうがいいらしい」という伝聞の事前情報があって、それを認識しながら「よくない」方を意図的に選んで「皮をむく」手つきが好きだなと思いました。
知っているけどあえてやらないこと、が生活の中にはいくつもあって、
「にんじんの皮」はその最小単位のひとつという感じがする。
1.皮には栄養があるとかそういう話をそもそも信じていない
のか、
2. 情報自体は信じているけどやらない
なのか、は描かれていないけど、後者の解釈のほうが主体の生活の主体性(この言い方はややこしいね)が高くなるので私は好きです。

ないものを補充すること 買っていて楽しいものとそうでないもの/斎藤見咲子

スーパーやドラッグストア(もしかしたらコンビニ)での場面かなと思いました。
洗剤とか、調味料とか、常に家に置いておかないと困るアイテムがいくつかあって、それを「楽しい/楽しくない」で分けているのが、生活自体を楽しんでいる感じでいいなと思いました。
「必要/不要」「最低限/プラスアルファ」みたいな分類が一般的には先行しそうなのだけど「楽しいかそうでないか」という視点も確かにあるなと気づかされます。


もし私がカラスだったら絶対にめちゃくちゃごみをあさると思う/斎藤見咲子

これは直前の「ごみ捨て場周辺にいる鳥たちにやめときなよと視線を送る」に対してオチ、のような歌になっていて不思議でした。
「もし私がカラスだったら」が既に不思議な仮定ではあるんですが、そこはまぁ文学だしな…と飲み込めても
「絶対にめちゃくちゃ」がやばい。どこからそんな確信がくるんだろう。
人間である主体は「やめときなよ」と思うのに、カラスになった瞬間そんな変貌することがあり得るのだろうか。
ごみを捨てる側からあさる側への転換がドラスティックでびっくりした歌でした。

雨宮真由より

にんじんの皮って食べたほうがいいらしいと思いつつ皮をむく/斎藤見咲子

書かれているのは事実だけというか、「こう思っている」ということと「皮をむく」という動作なのですが、不思議と主体の価値観というか物事に対するスタンスがよく浮かび上がる歌だなぁ、と思います。

にんじんの皮を食べたほうがいいらしいということは知っている。どういいのかはここでは語られていないけれど、多分栄養価的にいいのでしょう、ごみも出なくなるし。でも主体にとってはそれは価値として選び取るべきことではない。多少栄養価が増えたところでたいしたことはないし、それだったら触感や味を優先したい。あるいは皮をむくという作業自体が好きだからそうしているのかもしれない。

世の中の人々が語っていることを知らないのではなく知ってはいる、その上で自分がしたいように物事を選び取っていく、そういう主体の姿が見える歌だなと思うし、個人的に主体に好感を持ちます。

冷蔵庫を開けたら果物しかなくて朝ごはんみたいな夕ごはん/斎藤見咲子

こういうことあるなぁ、と思わされる歌です。実際には私はこういう体験をしたことがないにも関わらず。

何となく冷蔵庫を開けたのは外出から帰宅してからではない気がします。1日ずっと家にいて、ほとんど寝てたとか、ほとんど動かないで延々と映画を見てたとかで、夜になってからやっと「何か食べようか」という気になって冷蔵庫を開けたら、果物しかない。「果物」という言い方からすると何か1種類ではなくて数種類くらいはあるのかな。果物が冷蔵庫に常備されてるって、普段食生活に気をつけてる感じがするのに、果物だけを夜に食べるとなると、なぜかちゃんとしてない感じになる。ちょっと不思議な価値の逆転があるなぁと思います。でも1日の終わりにそれだけ食べる果物の味は普段よりしみわたりそうでおいしそうだなぁ。

もし私がカラスだったら絶対にめちゃくちゃごみをあさると思う/斎藤見咲子

この一首前の「ごみ捨て場周辺にいる鳥たちにやめときなよと視線を送る」の歌の時点からして、主体って「鳥たち」側の人だなというか、仲間感がある感じがします。「鳥たち」はつまりカラスのことなんでしょうけど、ゴミ捨て場にカラスがいたら、私は「嫌だなぁ」とか「どっか行ってくれないかな」とかは思っても、カラスに向かって「やめときなよ」と呼びかけるように思ったりはしないし、意味を込めて視線を送ったりもしない。主体はごみをあさることをとがめているけど、その視点にはなにか親しみみたいなものがあると思います。

そしてこの歌が主体がカラスに感じている親しみの裏打ちみたいな感じになってると思います。今は人間だから「やめときなよ」って言うけど、自分がカラスだったら「絶対にめちゃくちゃ」(この表現がすばらしい)ごみをあさると思うから、なんとなくカラスに対して強く出られない。やっぱり主体は普通の人よりカラス側に近いところにいる人だなという感じがします。

坂中真魚「おしゃれ着洗剤」へのコメント

斎藤見咲子より

おしゃれではない服も洗ってしまえるおしゃれ着洗剤 甘えのように/坂中真魚

これはまた不思議なロジック(?)だなと思います。
おしゃれ着はおしゃれ着洗剤で洗う。
おしゃれ着でないものはおしゃれ着洗剤では洗わない。
おしゃれ着でないものをおしゃれ着洗剤で洗うとき、それは何か?
みたいな。

個人的には、おしゃれ着洗剤でふつうの服を洗う分にはなんの問題もないじゃん、と思います。おしゃれ着をふつうの中性洗剤で洗ったらちぢんだりしちゃうけど。
おしゃれとは何かという話も含まれているのかもしれません。
気に入っているTシャツはおしゃれ着ではないが、
別段好きでもないスーツはおしゃれ着である。
おしゃれって何?
みたいな。

ペディキュアは音も立てずに剥がれ落ち夜の排水溝で光るよ/坂中真魚

ペディキュアは足の爪に塗るやつですね。
足の爪って小さいので、めちゃくちゃ塗りづらい。ペディキュアができる人は根気強い人だと思います。
しかも足って手に比べると見る機会が少ないから、色がはがれちゃったとしても気づきにくいと思うのです。
それでいつの間にかはがれてしまっていたきれいな色のペディキュアは、
人知れず排水溝で光っているわけです。
きれいだけどすこし切ない、そういう印象を受けます。

花を置けば花の部屋になるこの暮らし誰が死んでも悲しいだろう/坂中真魚

「花を置けば花の部屋になるこの暮らし」という謎の言い回しが気になります。
花を置けば花が置いてある部屋になる、のではないのか。
自分の部屋だとして、自分という居住者よりも花の存在のほうが強いのだろうか。
そこまで存在が薄くなってしまっているらしい人間と、
力強く色濃く咲いているであろう花とのコントラストに不安を感じます。

誰が死んでも悲しい、ということはあるだろうか。
毎日誰かが死んでいるというのに。
もしかすると、そのために部屋に花を飾るのかもしれません。
日々の悲しみをしずめるために。

雨宮真由より

おしゃれではない服も洗ってしまえるおしゃれ着洗剤 甘えのように/坂中真魚

おしゃれ着洗剤というものの性質を一言で言うと「生地に与えるダメージが少ない」のだと思います。タオルとかTシャツとか、じゃぶじゃぶ洗っていいようなものは普通の洗剤で洗うけど、なるべくダメージを与えたくないおしゃれ着はおしゃれ着洗剤で洗う。

何となく主体は疲れているのかな、と思います。おしゃれ着とそうでない服を分けて、それぞれの洗剤でぞれぞれの洗濯機のモードで洗うには少なくとも2回洗濯機を回さないといけない。そんなことができないくらい疲れてるのでしょう。だからまとめておしゃれ着洗剤で洗う。

そのまとめて洗う行為と、普通の洗剤よりダメージの少ないおしゃれ着洗剤を使うことを「甘え」と表現しているのかなと思います。主体自身が今何かに甘えたいような気分なのだろうなということも想起されます。

花を置けば花の部屋になるこの暮らし誰が死んでも悲しいだろう/坂中真魚

「花を置けば花の部屋になるこの暮らし」。これがそのとおりなら、作中主体はものすごく自意識が希薄な人間なんだと思います。花に限らず、部屋に置くものによってそのときの部屋の性質が決まる。そのくらい部屋には主体の存在を主張するものが(少なくとも表面上は)ないんじゃないかという気がします。

そして「誰が死んでも悲しいだろう」。個人的には「誰が死んでも悲しい」ということなんてないと思います。こう言うとなにか薄情な感じもしますが、現実的にはそうでしょう、だって見ず知らずの誰かの死を全部悲しんで悼んでいたらとても自分がまともに生きていられないから。

でも主体は悲しいという。これは感受性が高いとかではなくて、自分と他者の境界があいまいなんじゃないか、という気がします。「花の部屋」についてで言及したように、この作中主体にははっきりした自意識というものがない感じがするので。さらに言えば、自分と他者だけでなく、自分と事物との境界も極端にあいまいなのかもしれません。自分と部屋の境界もあいまいだから、部屋に花が置かれれば、自分もそれに染まって「花の部屋」になってしまう。多分主体にとってはそのように、そのときどき周囲の何かに同化するような形で生きていくのが常の在り方なのだと思いますが、読み手からすると主体のことがかなり気にかかる歌だなと思います。

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