人は神になることを選択するのか?地球外少年少女<後編>の感想

【初めに】

作品が公開されて2か月近くたってようやく後編の感想を書いてみる。なんだろう、後編に関しては正直、感じることはたくさんあるけど言葉にしにくい、というか断片断片では語りたいことがあるのだけど、それをまとまった文章にするのがむつかしいというか・・・。それは<後編>の魅力が「オカルトと科学」の境界線を攻めているところにあるからなんだよなー。この「オカルト」というのが非常に厄介で、わかる人には伝わるけどわからない人には全く伝わらない類のもので、不特定多数に説明するのは難しい。特に、令和の時代はオカルトブームがあった1980年代後半から2000年代前半からもう25年くらいたって、若い世代は過去にそんなオカルトブームがあったことがわからないひとが多いんじゃないかな?ちなみに私は1990年代にマガジンで連載されていたMMRや山本弘さんに代表されるトンデモ本の類をちょくちょく読んでいたので多少はなじみがある。そういえば、山本弘さんが手がけたサーラの冒険神は沈黙せず、も地球外少年少女の後編に近いテイストがあるな。あ、もっというなら「時の果てまでこの歌を」かな?


【セブンポエム】

後編を語るうえで外せないキーワード、それは「セブンポエム」だ。その名前からなんともオカルティックな雰囲気が漂うし、事実、作品中でもみんな「オカルト的」なものとして扱っている。ただし、これが現実世界の「オカルト」そのものではないというのが本作の肝、だ。本作の「セブンポエム」は作中世界において人間をはるかに凌駕したAI、「セブン」がその死に際に残した数式の羅列で、世界、そして未来のすべてを表す数式ともいわれているけど、その意味は世界のだれも解析できなったものだ。人は科学的反している説を「オカルト」と呼ぶが、自分が理解できないものも「オカルト」と呼ぶこともある。「セブンポエム」は後者の「人知を超えた得体のしれないもの」という意味での「オカルト」として扱われている。で、「オカルト的」なものは胡散臭いと思われると同時に人を否応がなくひきつけるものもある。その魅力に取りつかれた人間、それが那沙だ

【那沙という人物】

那沙は前編ではろっ骨を折って足手まといみたいな感じで描かれていて影が薄いのだけど、後編になって「セブンポエム」をめぐる中核人物としてその魅力を爆発させる。彼女は、実はジョンドーンの一味で、「セブンポエム」に取り憑かれた人間の1人なのだ。彼女のスマートは「セブンポエム」の解析器でもあり、そこにはセブンが「予言した」ことが映し出される。ミーナが閉じ込められること、宇宙ステーションが核攻撃にさらされること、そしてその核攻撃は失敗すること、これらは全部セブンが予言したことで、全部的中する。そう、セブンポエムはオカルトではない、本当に未来を予言するものなのだ。そうした描写があった後に那沙はいう
「セブンポエムによると人口を3分の1減らさないと地球環境が持たない。だから、自分は彗星を地球に落とすのだ」と。
この言葉、一見、暴論なのだけど、セブンポエムが予言を百発百中、的中させる様を見ると逆に不気味なほどの説得力が出てくる。だから登矢はこういう
「俺たちにはこの未来しかないのか?他の選択肢はないのか?」
だけど、那沙はここで致命的な解釈ミスを犯す、少なくとも私はそう思う。セブンの「3分の1減らさないと地球環境が持たない。」というのはセブンが予言したものだ。だけど、「彗星を地球に落とすのだ」というのは本当にセブンが意図したものなのだろうか?後にね、登矢が「氷の質量は地球の人口を1/3減らすには小さすぎる」と言っていたことを考えると、それはほぼ、セブンが意図したものではない、と言える。そして、彼女は「間違った」選択をしたことで「死」という運命を辿ることになってしまう。彼女は自らハッチを開いて宇宙空間に放り出されるのだけど、そうしなくとも、彼女の傷ついた体では最後のバンジーに耐えられないだろう。おそらく、彼女は死に間際にセブンポエムを見てこう悟ったのだろう。自分の役割は「逆襲のシャアのシャア」みたいな狂言回しをすることで、登矢と心葉の選択の判断材料になること・・・。だから彼女は死ぬ間際にこういう
「新しい神様は新たな時代のために生贄を必要とするのよ」
と、ここで新しい神様って那沙はいう。私は初見ではセカンドセブンのことを言っているのかと思ったけど、少し考えてそれは違うなと思った、だって、セカンドセブンはその後死ぬから。新しい神様って後の展開考えると登矢と心葉だよね。とにかく、那沙はセブンポエムに魅入られたことでセブンポエムの予言の「役割」を演じさせられた悲しい女性だと思う。でも、本人はセブンポエムの予言の一部となった満足感、というものがあったのかな?その辺りは正直わからない。

【登矢と心葉は神になることを選択するか?】


後編の3話のうち、ラスト1話は「どこでもない世界の中間」で登矢と心葉はセブンポエムを受け入れるか、受け入れないかの選択、つまり「君たちは人を導く神になるつもりはあるか?」という選択をめぐる物語になる。ここで鍵を握るのは「なぜセブンは登矢と心葉のインプラントに解けない暗号をかけたのか?」だ。これは私が思うに、「登矢と心葉が神になるかどうかの選択次第で必要となるし不必要にもなる、その選択をするまでインプラントは絶対存在しないといけないもの」だったからだろう。インプラントが不要になるのは本編の展開だからあまり細かい話はしないことにして、必要となる場合のことを書いてみる。インプラントが必要になるのは「登矢と心葉が神になることを選択した」場合だろう。この場合、2人のインプラントを核にしてセカンドセブンとルナティクした登矢と心葉がフレーム融合して男と女の心と体を持ってかつ、史上最高のAIの知能を備えた存在、これはもう「神」だよね。「神」って宗教上の観念的でオカルティックな存在と思っていたけど、科学が究極に発展したらキリスト教やイスラム教の経典に出てくる「神」、全知全能の神、がもしかしたら科学的に生まれるかもしれない、って示唆している、オカルトと科学は相反するものでなく意外と距離が近いよねってことをお話にする、これは磯監督の面白さに通じるとこでもあるなーと。
で、話を戻すと、
登矢と心葉にインプラントが埋め込まれたのも、
<前編>の展開も
後編の那沙の振る舞いも
セブンがセカンドセブンとして復活したのも
登矢と心葉が人類を救うために神になるかを選択する状況を生み出すためのものだったのだろう。人類を救う神を生み出す、その選択を登矢と心葉にさせるために。

【ゆりかごから飛び出す】

ただし、本編でもそうだったように、登矢と心葉はAIが生み出す「神」になることを拒否した。AIの予言をなぞる神として振る舞うのではなく、人がひとりひとりの意思で未来を切り開くべし、そういう道を選んだ。作中でFitsという言葉出てくるけど、それはAIが作り出す未来、セブンポエムに従わない世界を選ぶ、ということはセブンが読めない未来を進む道を選択する、ことことを選択することなんじゃないかなーと。そんな2人にセカンドセブンは「ゆりかごを飛び出せ」という言葉を贈る。AIが用意した未来を拒否するのなら、人類は自らを救うために自分の中にある思考の枠組み(フレーム)を広げる必要があると。この辺りはGレコ20話

を見ている感覚があったな。
<前編>、<後編>の出来事、これらを総称して「ルナティックコメット事件」とのちに呼ばれるようになったけど、「ルナティックコメット事件」を経て地球外少年少女たちはセカンドセブンから贈られた「ゆりかごを飛び出せ」、その言葉を胸にそれぞれの道を歩むってシーンがとても胸が熱くなる。そして、その言葉が心にある限りインプラントがなくとも宇宙に散ったセブンといつまでもつながっていけるのだろう。セブンが予言したセブンポエムの結末は人類とAIがごく自然にフレーム融合できる未来だったのかもしれない

【最後に】

ここまで、<後編>についてあれこれ書いてみました。ここに書いたのは私独自の解釈で、当然、磯監督が意図していたのとは違うだろうし、作品を見た人によって様々な解釈があると思います。前編、後編を見てセブンポエムとはなんだたのか、とか、インプラントの謎、とかFItsの意味を自分なりに考えて楽しむ、これが磯監督の意図してるもだと思いますよー


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