ホームレスの墓場と女装と宴
夜の闇に乗じると、この世とあの世の境目の境界は曖昧になって、向こう側へ行くのは案外簡単だったりする。
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真夜中の2時。
「やっと着いたな」
ため息交じりの声に疲れをにじませて、男はハイエースを何度も切り返して狭い駐車場に停めた。
古びたホテルの駐車場だった。
「お前らはここで寝ていろ」
男たちはコンビニ袋に入ったいくつかの食料をかき集めて車から降りる。
私はぼんやりしたまま、そのガサガサというポリ袋が擦れる脳天に刺さるような音を聞いている。
初めて乗った私にとっては驚きだったのだが、業務用バンと言われるハイエースは本当に大きくて、無駄に広い。
大してぎゅう詰めになっているわけでもない荷物を平らに並べて、その上に横になれば、眠れるだけのスペースは十分にあった。
とりあえず言われるがまま横になって、暗い闇に今にも飲まれそうな天井を見ていた。
しばらくしてから私は、おもむろに隣で同じように荷物の上に寝転がって天井を眺めている青年に声をかけた。
「寝てる?」
「ううん、起きてる」
「そっか」
私はぐっと上体を起こして、荷物を隔てたところで寝ている青年の顔を見た。
暗がりの中、わずかな光が青年の頬の輪郭を浮かび上がらせている。
「由良、散歩に行こう」
由良と呼ばれた青年は少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく頷いた。
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外はまだ少し肌寒い。半袖からむき出した腕にあたる風の匂いが、今が深夜であることを感じさせる。
静寂。
夜の闇に飲まれて音がくぐもる。
この深夜の中で動いているのは、私と由良の二人しかいないような不思議な気分になる。
「この近くに公園があるの」
私は言った。
「幼い頃、ここでよく遊んだんだ」
それは団地の隣にある、広い公園だった。
森のように木が生い茂っていて、広場には芝生が生えていて、所々に木のベンチがある。
私は記憶の中の景色と今の目の前の景色を重ねて歩きながら、ふと強烈に違和感を覚えた。
それは、その全ての場所に、人が寝ていたのだ。
「ホームレス」
由良がつぶやく。
私は頷く。
「うん。昔はこんなにはいなかったのだけれどね」
公園の隅は森のように木が生い茂っていて、そこは昔からホームレスが寝床にしていた。
私たちは秘密基地を作ろうとして、よくホームレスの人たちの寝床とバッティングした。
でも、ひらけた場所は、子供が遊ぶための場所だったはずだ。
しかし、ホームレスの数はいまやそこには収まり切らなくなっていた。
ベンチはもちろん、広場のなんでもない芝生の上に、たくさんの人たちが、ぽつぽつとただ雑魚寝をしている。
私と由良は、彼らを起こさないようにと注意しながら、公園を奥へ奥へと進む。
ふと視線を感じてそちらを見ると、無精ひげが生えた身なりのボロボロの男が、落ち窪んだ目をしてこちらを見ている。
その目にはなんの感情もない。洞穴のような目だ。
私はなるべくその男と目を合わせないようにして、その男から離れるように歩く方向の角度を変える。
隣には由良がいる。それだけで心強かった。一人でないということは、心強いことなのだと改めて思う。
「あ」
ふと私は、足下に寝ている人に見覚えがあることに気がつく。
「健人先輩」
「だれ?」
「部活の、部長だった人」
私は健人先輩のことを懐かしむ。
そのころの気持ちを思い出すと、なんだか鼻から吸い込む空気が少しだけ丸くて、甘ったるく感じる。
健人先輩は私に見られているとも知らずに、石柱の陰に体を丸めて目を閉じている。
その隣には、女の人がいて、その人を守るように抱いて寝ている。
健人先輩の彼女だろう。
お互いが、お互いの体温を確かめ合うようにして、彼らは地べたに寝転がっている。
それから私たちはまた奥へと歩いて、また知った顔を見つけた。
「また見つけたの?」
由良の問いに、私は「うん」と答える。
「今度は、会社の先輩。鬱で退職した人」
暗くてよく見えないけれど、彼の隣で寝ているのはきっと彼の妻だ。
私の尊敬する人たちが、みんなここで寝ているんだなぁと私は思う。
ここは墓場なのだ。
公園は人の気配に満ちていて、独特の香りがして、空気はじっとりと重たい。
ついに一番奥までたどり着いた。そこは角になっていて、先端が出口になっている。
その出口を出たところで、私はくるりと由良を振り返って微笑んだ。
どう?楽しかった?と私は彼に問うのだ。
うん、楽しかったよと彼はいう。
「じゃあ、帰ろうか」
帰りはその公園をぐるりと囲むようにしてある、細い道を行く。
急な上り坂。ここを登るの?という由良の不満そうな雰囲気を感じ取るも、私は無視をする。
坂を登りながら、少しずつ現世に戻っていくような、少しだけさみしい、離れがたい気持ちになる。
夜中をまわって、闇は少しずつ次の日を迎える準備をしている。
そんな離れがたい気持ちが、私にこの言葉を言わせた。
「ここに来た時はね、よく温泉に行くの。温泉というより、銭湯なんだけど」
「ふうん?」
由良の声に興味の色を感じ取って、私は彼を誘う。
「行く?」
「うん、行く」
まだ早朝4:00ごろだ。
確かこの辺にあったはず、と記憶を辿って、私はその場所にたどり着く。
暗闇の中にのれんの向こうからやわらかいあかりが漏れている。
そこだけが暗闇の中で浮かんでいるように感じる。
のれんの前に立ち、ぼんやりとしたあかりに包まれて、湯気の香りを吸い込むと、のれんの向こうからもわっとした独特の空気が私たちを包み込んだ。
いつも入る入り口と違うな、と私は思う。
でもきっと中でつながっているのだろう。
のれんをくぐると、靴を脱ぐ場所があって、右手には靴入れが並んでいる。
左手には受付があり、一段高くなった床には赤いカーペットが敷かれている。
右奥には空間が大きく広がっていて、左奥には通路があり、正面は壁の向こうに空間がありそうだ。そこまでを一瞬で捉えて、はて、浴場はどこだったっけと記憶を探る。
ここは複合施設で、銭湯は施設の一部でしかない。
「ちょっと待ってて」
私はそういって、靴を脱ぎ捨てて左奥の通路まで小走りで進む。
薄暗い通路の手前と奥にそれぞれ赤と青ののれんがかかっているのを見て、うん、問題ないと思う。
受付には人の気配がなかったし、このまま忍び込んで楽しもう、、、と思ったとき、後ろから私を呼ぶ由良の声がした。
「ちゃんとお金を払いなさい!」
施設の人らしい、中年女性の騒がしい声が、由良の声と交互に聞こえる。どうやら由良ともめているらしい。
私は慌てて入り口に戻り、由良の横に立つ。
由良が低い声で傍に立った私に言った。
「ごめん」
「もう払ったの?」
「うん」
じゃあ、私も払わざるを得ないな。
しょうがないね。私は小さく肩をすくめて小銭を支払う。
小銭の代わりに小さな鍵を一つずつもらい、私たちは改めて奥へと進んでいく。
ここは複合施設で、銭湯以外にも宿泊施設や宴会場などがある。
私はこういった広い施設が苦手だ。
どの順番でどこに行ったらいいかがわからなくなるからだ。
まず。そう、まずは着替えなくてはならない。
由良は青ののれんをくぐるから、私は赤ののれんをくぐる。
ところがくぐった途端に自信がなくなる。
更衣室を間違えた、と悟った私は慌てて外に出て、左右を見回して、あれ、やっぱり違うなと思う。
「何がわからないの?」
掃除の途中だったらしい女性が、キョロキョロと左右を見回している私に声をかける。
明らかに迷子だった私は、恥ずかしくなって、それから負けず嫌いが頭をもたげて、強がる。
「前と変わりましたよね?前は、渡り廊下を通った向こうに温泉があったと思うのだけれど」
そう言うと、掃除の女性は深く頷いた。
「そうよ、変わったの。そこの奥の階段を降りていくとあるわよ」
ありがとうございます、と私は口の中で呟いて、女性が指差した方に進む。
中央階段、とでも言うような階段。
ところせましと彫刻が施されたそれは手すりのへりが優雅なカーブを描いている。
その柔らかな曲線を手で確かめながら、私は恐る恐るといった様子で下に降りる。
ふかふかの赤い絨毯が私の足をやわからく包む。
中央なんて恐れ多くて歩けないから、端っこを歩いた。
地下に下りると、そこは天井が高く、けれどその広さのわりには照明が少なくて、照明の近くをのぞいて多くを薄暗闇がしん、とした空気を纏って存在している。
そのちょっとした静けさ、人の気配がしないところ、埃の香り、そのわずかなよそよそしさが私を不安な気持ちにさせる。
大理石に靴が当たる音が硬い音になって空間の奥まで走り去っていく。
ここは多分温泉施設ではない。
どこかで道を間違えたことはわかったけれど、どこへ行くべきかわからず私は左右を見回す。
その空間は白い大理石でできた柱がいくつも立っている。
前方には明かりがより多くなっていて、白い壁がある。その壁の向こうには人の気配がする。宴会をしているようなざわめきが聞こえる。
でも、私が行くべきはあっちじゃないのだ。
左右には奥に階段がある気配があった。それを登れば、さっきの階に戻れるかもしれない。
そう思った時、その階段の上から人が降りてくる気配がした。
3人くらいがおしゃべりをしながら降りてくる。
私が彼らの姿を認めるより早く、彼らが私の姿を認めた。
「ああ、理有」
「由良」
「ここにいたんだ。僕たちもちょうど向かうところだから、一緒に付いて来なよ」
うん、と頷いて私は彼らに付いていく。
彼らは前方の明るい方に向かって行く。
正面の壁には扉があった。精密な彫刻が所狭しと施された白い扉。
真鍮の丸いドアノブ。
それを回して扉を開けると、白くて丸いたくさんの光のつぶが私の目に飛び込んできた。
その向こうに広がっていたのは、ドレスのシッティングルームだった。
そこでは何人かの人たちが化粧をしたり、着物を着付けしたりしていた。
その一人の大柄な男が真っ赤な口紅をゆっくりと開いて言った。
「ここは単なる温泉施設じゃないのよ」
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選んでもらった高価な服に身を包んだ私たちは、シッティングルームを出て、宴会場へと入っていった。
そこは、夜中とは思えないほど光り輝く空間だった。シャンデリアの光を白い壁が反射して、闇が存在する余地をまるで許さない。
人々は高級そうなふかふかのボックス形状のソファーに座り、口々に何かを喋ってはその空間を満喫している。
私はその物珍しさにキョロキョロとあたりを見回しながら、大柄な男に案内されるままに奥へと進んでいった。
少し奥まったところにあるボックス席に案内された私たちは、大柄な男と向き合ってそこに座った。
何かを言われた気がするが、そこから先の記憶はない。
ホームレスの墓場の隣にある、女装の宴。
これがこの世界へ入り込んだ、私の最初の一日目の記憶だ。
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