アメリカの記憶

東京の小平市に生まれた私は、2歳のときにアメリカに渡ることになる。
理由は、父の転勤である。

父はアメリカの大学を出た後、すぐに日本の製薬会社に就職をした。
(就職と、私の誕生はほぼ同時であったそうだから、父の生活は激変だっただろう)
その製薬会社で父は、入社の時点から、アメリカへの転勤が期待されていたようだ。

父はどうやら、完璧主義者だったらしい。
仕事においても、絶対にミスはしない、落ち度を作らないと、常に緊張感を持っていた。(母から見て)
父は仕事人間で、私たち姉妹の子育てにはほぼ関与していない。

母は、専業主婦であり、赴任妻であった。
母は英語が得意ではない。
しかし、話すことを苦にしていないから、間違いの多い英語で臆すことなく人に話しかけていく。
およそ赴任妻らしさのかけらもない人だと思う。

母のアメリカでの最も鮮明に残っている記憶は、アメリカに来た当日のことであった。
父は先にアメリカに渡り、後から母が幼子二人を連れてアメリカにやってきた。

まず、飛行機の中でも大変だったという。
「眠くなる薬だよ、飛行機の中でこどもに使いなさい」
と祖父に渡された薬を飲ませたにも関わらず、まったく寝ることなく、泣きわめく0歳児と2歳児。
スチュワーデスさん(CA)に助けてもらったと母は言う。

そうして疲労困憊の中、降り立ったニュージャージー州の空港。
約束では、父が空港まで車で迎えに来てくれるはずだった。
しかし、空港に父の姿はない。

その日はクリスマスイブだった。
家族とクリスマスを祝うために、空港の人々もどんどんと帰っていき、あたりの人影も少なくなっていく。
ケータイもない時代のことだ、父がなぜ来ないのかも分からない。
異国の地で、幼子二人抱えて、どうすることもできない。
母がどれほど心細かったか。

約束より何時間も遅れて父がやってきたとき、
父が見た光景は、
0歳の赤子を抱える妻と、大きなトランクの載ったカートを押して妻の後を追う2歳の娘の姿だった。
それは父にとっても衝撃だったらしい。

母は、
「いつもわがままと自己主張ばかりの2歳児だったあなたも、
その時ばかりは緊急事態だとわかっていて、
私の後を、自分の体よりもずっと大きなカートを押して、必死についてきてくれた」
という。

父が遅れた理由だが、クリスマスイブだったために、予想よりもずっと大変な交通渋滞が起きていて、そのために母との合流が遅れてしまったのだそうだ。


私の最も古い記憶は、池の中のオタマジャクシをながめていたことである。
しかし、この記憶は、正しいかどうかは不明だ。
6、7歳ごろに、私は母にこのときの光景を詳しく語った。その記憶によって古い記憶が塗り替えられている可能性がある。
母曰く、その池は、家の目の前にあったそうだ。

その次の記憶は、家のソファに座る父と、キッチンにいる母である。
私は夜中に目が覚めて、リビングに行き、その父と母を見たというものだ。
しかし、これも記憶としては怪しい。
もう少し大きくなってから、夢で見た記憶のような気もする。

一番鮮明なのは、近所のおばさんについての記憶である。
近所のおばさんが戸口の前に立っている。
おばさんはアメリカ人らしくとても太っていた。
おばさんが私たち(母と妹と私)に何かを話しかける。
おばさんは、自分の車を案内して見せた。
その車は、小さな車であった。
私にとっては、まずそれが衝撃であった。なぜなら大きなおばさんには不釣り合いなサイズの車だったからだ。
さらに、おばさんが「乗りなさい」とでも言ったのか、私たちはその車の中を拝見することになる。
車の中はごちゃごちゃとゴミや荷物であふれていた。
その様子に、幼い私は、さらに衝撃を受けた。
その時に私が抱いた感想はこうである。
「この車の中に、おばさんは本当に納まるのだろうか、、?」


その次に鮮明な記憶は、アメリカの幼稚園での記憶である。
はじめてその幼稚園に見学に行った日。
いくつもの低い壁で仕切られた空間、色とりどりのスカーフ、先生であるミス・スター。

私が通った幼稚園は、シュタイナー教育を行う、ウォルドルフスクールであった。
いくつかの特徴をもつ幼稚園である。
そこは、幼児の体験と空想を重要視しており、およそ早期教育とは真逆をいく、「オルタナティブ教育」を行う幼稚園であった。

アメリカにある幼稚園であるから、当然、園児はみんな英語を使う。
一方の私は1歳のころからバリバリ日本語をしゃべってきたわけで、当然、英語のコミュニケーションには難がある。
入園当時、私はおそらく2歳か3歳になりたてであろうが、私が一番仲良くなったのは、日本語を話すことができる男の子であった。
彼は日本人の両親を持つ、アメリカ生まれの男の子だった。
彼の名前をいっせいくんという。

そんな私に、困難が訪れた。
入園してしばらく経ったある日、いっせいくんが幼稚園を休んだのだ。
私は、心細くて、心細くて、すりガラスの窓辺でずっと泣いていた。


アメリカにいたのは2歳後半から4歳前半までなのだが、他にも、アメリカについての記憶は思ったよりもあった。
友達の家に遊びに行ったら、とても広い地下室があって強い憧れを抱いた記憶。
雪の中、ソリに乗って坂を滑っていると、ふわふわの葉っぱがあり、それを触りながら「ふわふわだね」と笑いあった記憶。
幼稚園の帰りに、牧場に寄り、コーンの自動販売機にコインを入れてコーンをもらい、それを動物たちにあげていた記憶。


そして、4歳のころ、私は日本に帰国することになる。

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