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二人の落選展

 インターホンが鳴った瞬間、ヤン春水チュンシュイは脳裏にひらめくものがあった。予感。読みさしの本に栞を挟み込み、寄りかかっていたベッドの上に放る。体を起こすついでにテーブルからスマートフォンを取り上げ、スウェットパーカーのポケットに突っ込んだ。
 流し見た時刻は、二十時十九分。通知はない。
 一瞬だけ考えてヘアゴムを手首から外し、髪を簡単に左右でまとめながら部屋を三歩でまたいで、キッチン手前の壁面にあるインターホンの受話器を取った。
「ハイ」
 日本に留学して二年と少し、まだちょっとしたところに大陸訛りが出る。最初のうちは、我の強い上海人らしく「話せているのだから良いだろう」と気に留めなかったことだが、少し前から気にするようになっていた。
『あっ。えっと、こんばんは、佐野です』
 その明瞭な日本語にどれだけ近付けただろうか。話すたびにそう思う。だからか、この頃は受け答えが端的になりすぎているような気がした。甘えすぎだろうか、などと考えつつ応じると玄関へ急いだ。十一月も半ばになり、夜は冷える。深夜へ移行しつつあるこの時間、女子を一人にしておきたくなかった。
 玄関のドアを開けると、薄桃色のコート姿が寒そうに立っていた。寒風にさらされてきたであろう素足が見えている。チュンシュイが一六七センチあるので相対的に小柄に見えるが、均整の取れた体つきをしている。長い黒髪は少し伸ばしすぎで、目が隠れてしまいそうになるのをヘアピンで留めていた。
「……来ちゃった」
 チェーンの長さぎりぎりまで開いたドアの向こう。佐野和己かずみは引きつった笑みを色白の頬に貼り付けていた。予感通り、泣いていた。泣きたいのを我慢しているときの顔だった。発作的に手を伸ばし掛けるのを抑え、チェンシュイはいつも通りを装う。
「いきなりだね。まあ入って」
「いいの?」
「着替えるの面倒だから。——ソレなに?」
「え?」
 和己はアイボリーの長方形を抱えていた。腕を広げるとずらりと並んだキーの列が現れる。おおよそ携帯には向かないかっちりとした作りの日本語キーボードだった。たちまち困惑顔になる和己を見て、それ以上は問えなかった。
「……あは、どうしてだろ?」
 虚ろな響きが閉まるドアに飲み込まれた。

 大体の察しは付いていた。今年に入ってから和己は八つの小説新人賞あるいはコンテストに応募していた。そのうち結果が出ているのは六つ。どれも一次で落選していた。チュンシュイは単純に運だろう、と思っていた。身内びいきとは言えない。和己はそれ以前に、二次選考や最終選考まで残ったことがあるからだ。
「それもあるけどね……」
 すっかり泣きはらした目をこすって和己は弱々しい笑みを見せた。ココアを出したところで和己は決壊してしまった。万事控えめな彼女らしい押し殺した嗚咽に、ティッシュを差し出すことしかできないのがもどかしかった。
「書けないんだ。最近ずっと」
 ぽつぽつと和己は話し始めた。細かいところはチュンシュイの理解の及ばないところだったが、引っかかったのは「過去の自作に引っ張られる」というくだりだった。新しい話を考えようとしても、出てくるのは過去に書いた話の派生形ばかりになってしまう。
「もう〝落選〟って結果が出ているのに、他の可能性があったかもしれない……そんな風に考えちゃうの」
「悪いことじゃないと思うけど」
「それで書ければね」
 和己の笑みには深い自嘲が刻まれていた。そんなところに父親から「もう大学三年なのだから」と執筆を止めて就職活動を急ぐよう小言を繰られた。たまらなかった。
「『いつまでも身にならないことをしていないで』ってそれはその通りなんだけどね」
「そんなことない」
 無理矢理おどけて話す和己にチュンシュイは思わず口を挟んでいた。書いてくれなければ私が困る、と。和己が新作を書くたびにチュンシュイは感想を書いて渡していた。その感想文を元にして和己が日本語の添削を行う。この一年ほどの間にチュンシュイの日本語が上達したのは、間違いなくこのやり取りのお陰だった。
「和己はもう書きたくない? おさんに言われたからやめるとかある?」
 チュンシュイの問いに和己はふるふると首を振る。それだけで十分だった。自分に自信なさ過ぎるこの作家先生には極論が一番効く。
「それなら、書けるまで書けばいい」
「でも、いまみたいに後ろ向いたままじゃ……」
「吹っ切れればいい?」
 うなずく和己を見てチュンシュイは考えをめぐらせた。過去、落選、評価、感想、反応、添削、対応、後、先、前、次……連想をしていくうちに思いつく。
「だったら、落選作を全部公開したらどう?」
 投稿サイトの名を口にする。二人が知り合うきっかけとなった場所。チュンシュイが最初に〝秋坂和己〟を知った経緯をたどり、話す。
「公開して自分の中から出してしまえばいい。私達以外が知る既存の物語にする。落選展だ」
「それで、吹っ切れるかな?」
「やってから考えればいい」
 和己は目をしばたたいて淡く笑った。
「そうだね」
 その笑みを見たとき、チュンシュイは二人だけの落選展が終わりを告げたのだと悟った。かすかな寂しさを覚えつつ、それでも和己に書き続けて欲しいと思う。その先に二人の未来があることを願って。そっと手を伸ばす。
 テーブルに置いたキーボードの上で二人の手が重なった。

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