『靴磨き屋の幸せ(1)』

友人がイタリアンレストランを開業したので訪れた。
壁一面の窓の向こうに砂浜が広がる最高の景観だった。
潮の香りと、海のさざ波の音と、遮るものがない彼方まで続く水平線。
こんな所で一日中、日本酒を飲みながらぼーっと過ごしたいな。と思う店だった。
食後に友人が挨拶に来た。
「旨かったよ。おめでとう。」
「ありがとう。」
友人の顔には「いい店だろ?」と言いたげな満足感が浮かんでいた。
僕はワインを一口飲み、砂浜を眺めながら「ほんといい店だよ。」と言い、それから少し前に思い付いた事を言った。
「ちょっと相談なんだけどさ、天気のいい日にそこの駐車場一個貸してよ。」
「駐車場?」
駐車場は砂浜に面した道路添いの立地で店の規模からすると余裕のある広さだった。
そしてパラソルでも立てれば一日中過ごすのに最高の場所だった。
地面はアスファルトでもないので照り返しもなく、5月の今の時期であれば風も気持ちいいだろう。
僕は続けて言った。
「そこでさ、ゆっくり一日、海を見ながら過ごしたいんだよ。」
「いや、砂浜行けよ。」
僕は返答せずに笑顔を返した。
友人は諦めた顔をして「いいよ。好きにしろよ。迷惑は掛けるなよ。」と言った。
「ありがとう。」と答えた。

翌日は快晴だった。
ちょっと日差しがきついか?と思いながら、アタッシュケース2個、中型のクーラーボックス、エプロン、キャンプ用の折り畳み椅子2個、そしてパラソルを持って友人の店へ出かけた。
朝の10時前、駐車場の一番奥のスペースに車を止め、店の前まで歩いてくると、開店前の準備をしている友人の姿が窓の外から見えた。
僕が手を振ると友人が気付いたので、あそこあそこと駐車場を指差して見せた。
友人は軽く手を上げて答えたので、僕は駐車場に戻った。
僕は車の後ろ側、海に向かう方にパラソルを立て、折り畳み椅子を向かい合わせにして並べ、その前にスリッパを置き、アタッシュケース2個を車の下に置いた。
それから車の前側、道路から見える方に段ボールを立て掛け、そこにマジックでこう書いた。
『お酒を飲みながらで構わなければ靴磨きをします。お代は1,000円。』
僕は海側に戻ると、クタクタになるまで洗い込んだ黒いダック地のエプロンを付け、クーラーボックスから500mlの黒ラベルを取り出し、椅子に座って、伸ばした足をクーラーボックスに乗せ、プルタブを引いた。
朝の10時から外飲みするビールは最高だった。
「太陽がいっぱいだ・・・」と呟きたいくらいに。

今日はゆっくり飲もう。潰れたら意味がない。と思っていたが、15分後には次の黒ラベルを出した。
更に15分後に3本目、11時、レストランの開店時間が来た時には、既に4本目を飲み終えていた。
開店に合わせてきた車も2台おり、お酒をセーブしてお客を待つ事にして、スマホにイヤホンを差し、海を眺めながら音楽を聴いた。
僕はビースティ・ボーイズのgirlsを歌い、サブライムのSmoke two jointsを歌い、次のジャック・ジョンソンのBetter togetherを歌っている所で視線を感じた。
5メートルほど先で、50代くらいの夫婦と思しき男女が見なかった振りをして逃げようとしていた。
僕は男性の靴を見た。
大きめのラウンドトゥのプレーントゥダービー、ライトブラウンのレザーはかなり色ムラが出ているが元から耐水加工を施したレザーの様な強さを感じる。
そして何よりノルウィージャン製法の頑丈な雰囲気に武骨さがありかっこよかった。
これは良い靴だ。と、一足目から愛靴心をくすぐる靴が来た。
僕は絶対に逃してはならん。と「いやいやいやいや、どうぞどうぞ」と男性を連れ戻し、「靴磨きですか?」と聞いた。
男性は観念した感じで「この靴なんですけど。」と、履いていた靴を指差した。
椅子に座って貰うように促し、スリッパを男性が履きやすい位置に揃えて「脱いでもらっていいですか?」と聞いた。
男性は僕の対面の椅子に座り、靴を脱ぎ、やや靴を心配そうに眺めてから、両足を揃えて僕に差し出した。
後ろで眺めている奥さんもかなり不安そうな顔で見ている。
僕は鈍感な振りをしてその視線をやり過ごしつつ、受け取った靴のインソールを確認し、(やっぱり!)と思った。
靴はヴィンテージのジョン・ロブで、2000年前後の僅かな期間だけに作られたアウトドア用のコテージラインの靴だった。
「これ、ジョン・ロブのコテージラインですよね?このタイプは初めて見ます。」
といった僕に、不信顔だった男性は驚いた顔で「えっ、分かります?」と食い付いてきた。
もう、目を輝かせて、がっつりと。落ちたな。と思った。
続けて僕は言った。
「いや、僕も違うコテージラインを一足持ってるんですよ。でも、こんなに状態良くないですし、このロブらしいでっかいおでこにノルウィージャン、滅茶苦茶かっこいいですよね。」
男性はもう、破顔といった感じで「これはね、販売時に偶然買えて、当時、新橋の三越でね・・・」と、一気に思い出を語り始めた。
奥さんはちょっと展開に付いて行けずキョトンとしている。
僕は相槌を打ちながらニコニコで聞いて、(愛されてるな、この靴は。)と嬉しくなった。
そして僕は「磨いてもいいですか?」と聞いた。
男性は「お願いします。」と、期待した顔で見ている。
僕は靴の点検を兼ねて、一つ一つの作業とチェック内容を口に出し、男性とこの靴の魅力と状態を共有しながら進めた。
まずは靴紐を先割れと変色をチェックしながら丁寧に外す。
4アイレットのダービー、どっしり感のある靴にはこのくらいの男臭さが良い。
紐もオリジナルと思われる白い蝋引きの平紐、先割れもなく、やや茶に変色している部分はどこまで拭き取れるか?
それから僕はFUCKとステッカーの貼ってあるアタッシュケースを開けて、サイズUK7のシューツリーを取り出した。
有り難い事に手持ちのシューツリーはつま先までしっかりとフィットした。
靴を持ち上げて全体を確認した。
流石にどっしりとした見た目の通り重量感はあるが、寧ろそれも魅力と言える。
傷は目立つものは感じない。履き皺がある程度、それでもプレーントゥにしては驚くほど薄い。
レザーは厚みはあるが均一でかなりしっかりとしている。
ステッチは緩みも解れもない。
型崩れの自然さも脱ぎ履きを丁寧にやっている事が窺える。
インソールも膨らみがあり、潰れた感じもない。重いとは言え、このクッションであればかなり履きやすそうな印象だ。
ロブオリジナルの複雑怪奇なコマンドソールもオリジナルのまま、すり減りも少なく残っている。
とても20年以上前の物とは思えないが、防水処理されたレザーは少し油分が足りないように感じる。
男性は僕のそうした細かい独り言を聞きながら、「そう!、そう!!」と、我が意を得たりと興奮している。
僕はブラッシングから開始した。
ここから先は、口数は減らして、寡黙に靴と向き合う作業になる。
僕は馬毛ブラシで靴全体を隅々まで、しつこいくらいにブラッシングした。
それだけでもかなり艶は戻った。
それからシューツリーを外し、靴の内側の爪先のホコリを専用具で丹念に掻き出し、インソールに除菌用のスプレーを吹きかける。
再度、シューツリーを付け、今度はCRAZYとステッカーの貼ってあるアタッシュケースからモゥブレイのステインリムーバーを取り出す。
しかし、若干悩む。
個人的な趣味で言えば、かなり頑丈に、特にアウトドア向けに作られたこの靴は、そのままブラッシングだけでエイジングさせていく方が良い様に思う。
しかし、限度がある。20年も経ってやや油分切れを感じる今の状態であれば、思い切って汚れ落としと乳化剤でのメンテナンスをするべきではないか?と。
僕は男性にその話をしてみた。
男性の回答は明快だった。
「この靴の運命はあなたに預けます。」
さっきまでの不信感はなんだった?と思う程の変わり様、キラキラの目でこっちを見ている。
僕は笑いをこらえながら、僕なりの考えを説明した。
ステインリムーバーで全体を拭きとっても、この革なら染みにならずに持ちこたえてくれると思う。
ただし、全体に若干の赤みは出るが、本来のエイジングに近い色味に近付くので悪い変化ではないだろう。
乳化剤は無色の物で、出来るだけ今の色ムラを残したい。
その3点だった。
男性は神妙な顔で「はい。」と何度も相槌を打ち、息子の手術を医者に託す父親みたいだ。と思った。
僕はクロスに少なめのステインリムーバーを付け、左足の踵下辺りのレザーを軽く拭いてみた。
予想通り、レザーは液体に反応して軽い変色を起こすが、染み込んで色濃くなるまではない。
場所を変えてサイドの辺りで、先程よりも強く広くさっと拭いてみるが、同じようだった。
僕は男性を見て「行けると思います。」と言い、男性は見ていられないそぶりで、くっと目線を下に逸らした。
僕はやり過ぎないように、丁寧に、慎重に、全体を拭き取った。
上手く行ったと思う。
全体が乾くと、思った通り、染みはなくやや赤みが出たが劣化というよりはエイジングに近い雰囲気だった。
続いて、サフィールのニュートラルの乳化剤を豚毛ブラシに付け、全体をブラッシングした。
これは結構強めにやった。
暫く、乳化剤が染み渡るのを待ってクロスで拭き取りを始めた。
この拭き取りの時にレザーの良し悪しの差は如実に出る。
予想はしていたが、一拭き目に引っ掛かりを感じたレザーは、二拭き目でつるりとした感触になり、三拭き目では宝石のように滑り出す。
僕は思わず「最高ですね、このレザーは。」と声を掛けた。
その時の男性の顔はもう、アヘ顔に近い位、昇天した顔だった。
全体を丹念に拭き終えた僕は、仕上げクロスで二度拭きした。
そして最後に靴紐を拭き取り、シングルで通し、イアンノットで結び、手に持ったまま全体の仕上がりをチェックして「どうぞ。」と丁寧に手渡した。
かくして、靴はメンテナンスを終え、それは新品同様ではなく、20年の時を持ち主と過ごした風合い感が絶妙な、良い仕上がりだった。
男性は僕に後光が差しているかのように眩しそうな顔で「ありがとうございます。」と言い、靴を履いた。
先程より艶を増した靴は、男性の生成りのボタンダウンシャツとコードレーンのジャケットとの相性は良さそうだが、洗い込んだデニムには少し眩しすぎる気もする。
しかし、このアンバランスさが調和するようにデニムと靴を育てていくのも靴好きの楽しみでもある。
僕は心から「かっこいいですよ。」と伝えた。
男性の「うん。」という満足した顔が嬉しかった。
そして更に嬉しかったのは、ずっと不思議そうに眺めていた奥さんが、少し涙ぐんでお礼を言ってきた事だった。
奥さんが言うには、旦那さんが靴を自慢する度に、アホな道楽(と、はっきり言った。)と冷ややかに見ていたらしいが、こんなにも褒めて貰えるもので、実際に今の姿を見て、こんなにもかっこいい靴だったとは思いもしなかった。と言ってくれた事だった。
僕も少し泣きそうだった。
それから僕は気持ちを整えて「では1,000円になります。」と伝えた。
男性は「こんないい道具で時間も掛けて丁寧にやって貰って、1,000円は安すぎないですか?」と聞いた。
勿論安い。相場的にも3,000円とってもおかしくはないだろう。
しかし、今回は目的もあってのサービスなので1,000円で十分。
僕は「趣味でやっているだけなので大丈夫ですよ。」と言い、男性は1,000円を支払い、夫婦で「本当にありがとうございました。」と言って、帰って行った。

と、そんなやり取りを離れた所から熱心に見ている男の事は気付いていた。
あのダブルのライダースジャケットの男、あの男が履いているブーツはグイディレザー。
僕の一番好きなレザーだ。

(1)終了

(1)のあとがき
いくつか物語を書きながら、また他人の書いた物を読みながら、感じ始めた事として。
結局の所、表現の精緻さというのは自分の好きな事、興味のある事が一番正確で、特に僕の場合は取って付けても曖昧さが際立ってしまう。という事があって。
そんな訳で、自分の好きな事をめいっぱい書いてみようと、それで靴磨きを選んだのがこの物語です。

趣味のほとんどが消費する事である僕にとって、書くという作業と同じく、生産的な趣味と言えるのが靴磨きです。
靴磨きをしていて感じるのは、レザーというのは磨くという自分の期待に応えてくれる存在であり、稀に、僕の予想を超えて奇跡の様な変化をもたらしてくれる存在という事です。
そんな奇跡を経験した時、そのレザーの成り立ちや歴史、そしてそれを引き継いできた人々の熱意を知ると、そこには伝統という言葉だけでは表せない、人の思いが沢山詰まっているように感じます。
そんな感動を物語にしていければと、考えています。

3,000文字程度の短編になればと思っていましたが、毎度の通り、長期化しそうです。
しかし、一足ずつ靴を解説しながら、奇跡を伝え、靴磨き屋の幸せを書ければ、それもまた自分にとっては嬉しい作業です。
注釈等は敢えて何もつけず、書きたいだけ書いた物なので、単語レベルで不明な物が多く申し訳ございません。

最後に、読んで頂きまして、ありがとうございました。

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