見出し画像

戦闘開始

与太郎狂騒曲

校則は厳しいけど存分に暴れさせてもらう事にした。ベーサトと俺の家で行われていた戦いを校内にそのまま持っていき皆を巻き込んでやってみたのだった。
ベーサトの1組と俺の5組で廊下を使って戦い始めた。
ビーバップハイスクール(映画バージョン)や、ろくでなしブルースの影響もある。顔を殴る以外はだいたい何をやっても良いと言う暗黙のルールだった。学ランを着たまま飛び蹴りを出したり誰かをボコボコにしたりどっちかのクラスの男子を見つけるとボコってボコられてるとオラァーと言ってそいつを助けに行ったりそれはそれは楽しいものだった。

授業中に背中に靴痕を残している者も結構いた。なかなか勝敗がつかなかったので誰かがルールを作ろうと言った。一年の教室の前の長い廊下の端と端に雑巾を置き、そこを両クラスの陣地とし相手の雑巾を奪って自分の陣地に持ち帰れば勝ちと言うルールだった。名付けて“雑巾取り”

戦いは過酷を極めたのだがアドレナリン全開で走って殴って奪い合った。
結局勝敗などはつかなかったのだが。女子達は廊下で立ち話なんて出来る状況じゃなかった。

最終的には誰かに迷惑だとチクられホームルームで担任の先生に怒られこの戦いは終結したのだが楽しかったとしか言いようがない。
教師達が抑えようとしていても俺達は力が溢れていたのだ。面白かったなと言って帰ったらまたベーサトと戦った。

三中になってからこの放課後ファイトクラブにメンバーが増えた。児童公園の戦いにいたユタだ。
学校以外は駄菓子屋に行ったり自転車でウロウロしたりで暇になると手持ちぶたさに3人で戦った。
この頃はアキレス腱固めや腕十字を多用していた。
一般的には思春期だ。普通このような時期は音楽やファッション、女などに進むのであったが俺とベーサトは引き続きお互いにアキレス腱固めをかけ合っていた。
より実践的にと体育着を腕にぐるぐる巻きにしてボクシングルールで殴り合ったりもしたのだが戦闘後の頭痛が酷くて止めようと言う話になった。
三中の中では自分が一番強いとそれぞれ思っていた。
同学年を見渡すとそんな奴らが均衡したバランスに中で成り立っていたように思う。

トレーニングデイ

自分はヤンキーグループでは無い。グレる必要など何一つ無かったからだけど、しかし喧嘩は最強でありたかった。
テニス部の最初の年はかなり練習を真面目にやった。スポーツをちゃんとやる事が今までに無かったから新鮮な気持ちだった。
入学当初に驚かされた野球部の斎(いつき)小出身の3人のパワーは別格で腕相撲しても走っても一般中学生の馬力ではなかった。
この中のゴウ君は入学時から100m、12秒台を余裕で叩き出していた。
腕相撲で挑んでも簡単に負けてしまうので何か悔しくてどうやれば強くなれるのか解らないけどとりあえず同じくらいのレベルのやつと休み時間にいつも腕相撲をした。

俺は利き腕は右だけど左も鍛えたかったので左右どっちも勝負できるように練習した。
相手が見つからない時は弱い奴や女子に両手で相手してもらった。すると野球部の3人と組み合うくらいの相手になるので良いトレーニングが出来たのだった。
この考え方は後の格闘技人生において大きく反映される事になる。そして一年の後半ぐらいから成長期の俺の体に異変が起き始めていた。

2年になる頃には身長がグングン伸び始めた。更に腕相撲もどんどん強くなった。

実はベーサトとユタの他に俺には別のスパー相手がいた。久しぶりに登場の俺のスーパーマンだった親父である。

しかし身長も追い付いてきた辺りからパワーも俺の方が強くなってしまっていた。俺にマウントを取られて動けない親父。
「冗談じゃねぇ」と急にキレる事により息子の猛攻をなんとかエスケープ。
俺は戦闘の分野では親父を早い段階で越してしまったようだ。
背が170cmくらいの頃、野球部の3人からも腕相撲で勝てるようになっていた。

進撃のベーサト

まず我々学年で最初に暴れていたのはベーサトだった。彼は身長180cmを目指してジャンプの裏に付いてるような通販で背が伸びる為の本を買い、その体操をしながらF-1レーサーになる為のフィジカルを鍛えていた。

そんなベーサトは気に入らない奴をすぐに殴っていた。

勢いのあるベーサトにお前はもっと喧嘩をしろと注意された事がある。
確かに同学年は戦闘力が均衡して仲が良くなっていたし、やるなら街に出るしか無くなっていた。

俺らは日曜日に喧嘩上等で鶴岡駅前まで遠征してちょうど良い相手を探した。
そんな時期だ。
ベーサトが隣の中学の○○をシメた。と言う話が一気に広まった。
○○は当時一番暴れていた奴で自分達の学年の一つ上だった。一緒にいた○○の仲間もおっつんと一緒にボコったらしい。

ベーサト達はその日の喧嘩を自慢していた。○○達は全く相手にもならなかったらしい。
考えてみればタバコ吸ったり悪い事をするのがヤンキーならば俺らは健康優良不良少年な訳で俺達に敵う奴などいるはずが無い。

その一戦以降ベーサトは短期政権ではあったが三中の最強の座に着いた。一つ上の学年もいたが俺達の敵では無かった。
ベーサトはその後もちょいちょい暴れていた。

鶴岡の駅前を意味なくブラブラと歩けば喧嘩には必ず巻き込まれる。
恐喝される奴も少なくはなかった。恐喝など興味ないし、絡まれたら返り討ちにしてやるのが我々のやり方。
売られた喧嘩を買いベーサトと2人で相手の奴らをボコボコにしてやった事もあった。

帰宅部

2年になると毎日通っていたテニス部にはプッツリと行かなくなった。
新任のテニス部の顧問があまりにも気に入らなくやる気が失せたのだった。
新しい顧問はテニス経験が無い上に指導にも全然来なかったし来れば俺より下手なのに知ったかぶりをする。
文句を書けばそれだけで2話くらい書けそうなのだがそんな話どうでも良いし顧問が嫌だから行かないってくらいだからテニスに対して情熱が無かっただけ。
まず軟式はダブルスしか無いのが気に入らない。
さらば軟式庭球。

と言う事で授業が終われば家に帰った。
テニス部には内申書と健康維持程度の為にたまに行った。

そんな中で何か新しいものを持ってくるのはいつもベーサトだった。三中の近くにモデルガンやサバイバル用品の専門店が出来たから一緒に行こうと言うのだ。
学校から徒歩2分くらいのところにあったその店の名は“宝島”
ショーウィンドウに見たこともないマシンガンがゾロリと並び警棒やサバイバルナイフなども売っていた。
ベーサトはイングラムを買っていた。いろいろ揃えると結構高額なのだが俺にそれを自慢した。
その破壊力を見せる為に自宅でフルオートで連射していたのだが家の壁などは相変わらずお構い無しだ。

俺もすぐに影響されてミニウージーを買った。
そうなると我々は撃ち合いたくなってしまう。
鶴岡公園の奥にある小山を使ってサバイバルをした。
しかもゴーグル買う金も無いからプロテクター類一切ナシだ。

凝っているグループは必ずゴーグルを着けて一回当たれば死亡と言う事になりより実践的なゲームを行っていたのだが我々は撃たれたら撃ち返すと言うような格闘技をガスガンで行っていた。

部活は行かなくてもめちゃ走るし登るし隠れるし、この時知る由もない都会の中学生とは全く違う生活、いやだいたいの同級生とも違う生活を送っていたのだった。

この時期、懐かしのヘリコプターのYと自転車ですれ違ったのだがYはタンクトップに軍パン、アーミーブーツ。頭にはバンダナを巻き肩にはデカいライフルをかけていた。

湘南爆走族

中学になるとマンガはもう書かなくなっていたのだが小学校時代から絵を描くのが好きだったおかげで美術の成績はずっと良かった。
マンガ本は好きで沢山買っていた。友達が遊びに来るとうちがマンガ喫茶みたいになるのだがそれは止めて欲しかったのだが、中学生時代に一番ハマったのが“湘南爆走族”だ。

世代的にはもっと上の代で流行ったマンガだったが自分達の代にも受け継がれ一部ではあったがとても人気があった。
男が憧れる生き様が主人公の江口にあったのだ。

当時の三中の教師達はやりたい放題生徒を殴っていた。反抗しようものなら何十発も叩いていた。
教師全員がそうだった訳じゃ無いけどそれを黙認していた訳だから教師全員同罪だと思っている。

大人になってあの時殴ってもらって目が覚めたなんて美談なら良いのだが、あれはどう考えても憎しみと殴ってストレス解消していたのだと思う。

そんな教師達を軽蔑していたし先生として学ばせてもらう対象とは当時は思っていなかった。
俺の教科書は湘南爆走族とブルーハーツ。この2つが俺の人格を形成したようなものだ。これ以上の説得力のあるものがこの時期の俺には他に無かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?